武田信玄 寅王 徳川家康




寅王丸 (千代宮丸 / 長岌) と竹千代 / 家康
1542年-不明 ※竹千代も寅年1542年生まれ
於大の方と諏訪氏第19代当主上原城城主で諏訪大社大祝:諏訪頼重との間に生まれたとされている
双子の寅王丸の実父は松平宗家8代当主:岡崎城主の松平広忠

信玄(晴信)は幼い寅王丸を推戴して諏訪一族を統合したが
その後はいずこかの寺に預けられ隠される⇒追跡不能

もう一人の寅王丸は竹千代/と名付けられ松平広忠のもとから1549年に今川家に養子に出される
今川家では祖父の信玄の父:武田信虎が孫の竹千代を今川家軍師の太原雪斎と共に
8年前から待っておりエリート教育の下準備を整えていた 
※実際はもっと早かったかもしれない

1541年の信虎の甲斐追放は自作自演のヤラセ劇で禰々が身ごもった時点で
天下統一を見据えて信虎が打った布石のひとつにすぎない
信虎は竹千代が生まれた年には京都・奈良・高野山などの寺々に参拝し廻っており
参拝料や祈禱料は信玄が支払った旨の記録が残っている

松平広忠は竹千代が今川家に養子に出された同年1549年に死亡している
死因については意外なことに実に多くの書物で諸説があり
なんとも確信がないが家康の実父でありながら肖像画の1枚もでてこないのは
実に胡散臭く病死説などは信じがたい
肖像画がないということは見せたくないということだ
理由は似ていない・存在自体を抹消したい何かがあった・・・とかだろう
もしかしたら松平家の血筋でもない別の父親の存在があったのかもしれない
・・・まさか信虎じゃないだろな・・・汗

ただ竹千代の父親は諏訪家(神氏)の血統ではない
・・・と思う
理由は諏訪神道は朝鮮勢力の武田家にとっては死滅か支配下におきたい敵対関係だからである
神道なんてゆー日本人の血が混じったら朝鮮人による朝鮮幕府が穢れる!
そんなとこダロ
でも神氏:諏訪家と藤原氏の血筋である武田の子供は朝鮮人と日本人の合作でもあり
両家から大切に扱われる可能性もあるし逆に都合が悪くなれば抹殺される対象でもある
※北朝鮮が天皇家の血筋が欲しくて横田さんを拉致したようにあり得ることかもしれない


松平広忠が秘密保持のために家臣の謀反を装い殺されたのであれば
犯人は源氏筆頭エリート:力のある信虎しかいない
いずれにしても生きていられるとマズかったのだ
だがしかし
神氏であるのに諏訪頼重の肖像画もでてこない!
んーーーーーー何かある!
ってゆーか広忠に似ていれば何の問題もないハズだから
極端に諏訪頼重似だったのか???⇒追って調査する
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徳川家康は武田家との繋がりが異常なくらいに深かった
このことは表の歴史では決して語られることのない事実だ

親密すぎる徳川家と武田家
1 家康の妻は20人中5人が武田家所縁の女性
築山殿(つきやまどの、?-1579年)
家康の正室。今川家の血脈を受け継ぎ、家康の人質時代にその正室となる。
のちに武田家との内通疑惑があがり家康から死罪を命じられ嫡男信康とともに生涯の幕を閉じた。

朝日姫(あさひひめ、1543-90年)
家康の継室。秀吉の妹にあたる。もともと結婚していたが、秀吉が家康を懐柔する際に
強制離縁させられ無理矢理に家康に嫁がれた。かなり強引な形での政略結婚の犠牲者である。
家康との間に子はいない。

小督局(こごうのつぼね、1548-1615年)
家康の最初の側室であり、家康二男・結城秀康の生母として知られる。
はじめ築山殿の侍女であったが、風呂場で家康の手付となって秀康が産まれたという。
築山殿が彼女の妊娠を知ったとき、寒い夜に裸にされて城内の庭の木にしばり付けられ
これをたまたま見つけた家康の家臣・本多重次に保護され秀康を出産したという逸話も伝わっている。
西郡局(にしごおりのつぼね、?-1606年))
今川家臣・鵜殿長持の娘。1564年頃に家康の側室となり翌年には督姫を産んでいる。
西郷局(さいごうのつぼね、1552?-89年)
遠州の名もない家柄の娘。通称はお愛の方。江戸幕府2代将軍・秀忠と松平忠吉の母でもある。
美人で温和な人柄といい家康のほか周囲の家臣や侍女らにも信頼されて好かれていた。
阿茶局(あちゃのつぼね、1555-1637年)
武田家臣:飯田氏の娘信長暗殺・築山殿殺害の1579年に家康に召し出された。
長男の神尾守世はのちに徳川秀忠に近侍している。
家康との間に子はなかったが1614年の大阪冬の陣の際には和睦交渉の使者を務めるなど
家康から諸事を任されることも多かった。
1620年に秀忠の息女・和子入内の際には母儀代を務め従一位に叙せられた。

お牟須(おむす、?-1592年)
武田家臣:三井氏の娘武田が滅亡し本能寺の変があった1582年に家康の側室となった。

下山殿(しもやまどの、1564?-91年)
武田信玄の娘1582年に家康の側室となった。家康との間に五男・万千代(武田信吉)を設けている。

お竹(おたけ、1565-1637年)
武田信玄の娘。 武田一門の市川家は家康が信玄ゆかりの姫を探していると聞きお竹の方を伴った。
家康は一目見てお竹の方に信玄の面影を見た。
生まれてからずっと「信玄様によく似ている」と言われて育っている。

松(まつ、?-?年)
法名を「法光院」という。1582年(天正10年)に家康の落胤とされる松平民部を産んだというが
定かではない。

茶阿局(さあのつぼね、?-1621年)
遠江の百姓の娘といい、はじめ遠州金谷宿の鋳物職人と結婚して一女を産んだが
彼女に言い寄る土地の代官に夫が殺害されたという。
このとき茶阿局は路上で鷹狩に来ていた家康に仇討ちを直訴したことがきっかけで
家康に召しだされたという。
お仙(おせん、1570-1619年)
武田家臣:宮崎泰景の娘。阿茶局が1589年家康に引き合わせた。
お亀(おかめ、1573-1642年)
山城国出身で志水氏の娘という。後家であったが、家康に見初められて側室となる。
家康との間に2人の息子・仙千代と義直を設けている。
仙千代は夭折し、義直は徳川御三家のひとつ尾張徳川の始祖となった。
普照院(ふしょういん、?-1617年)
北条氏の旧臣の娘といい、家康との間に四女・松姫を設けたというが定かではない。
家康が亡くなった翌年に駿府城で死去したという。
お梶(おかじ、1578-1642年)
出自は定かでないが、太田康資の娘、もしくは養女とする説などがある。
家康が江戸へ移封となった天正18年(1590年)、13歳のころに家康に仕えたとされている。
家康の意向で一度は松平正綱に嫁いだが、家康の元に戻り、家康の末子・市姫を産んでいる。 
家康死後は落飾して英勝院と称した。
お万(おまん、1580-1653年)
正木頼忠の娘。三島の宿で女中をしていた16~17歳のころ、入浴中の家康に見初められて
側室になったという。
家康との間に頼宣と頼房の2人の息子を設け、彼らはのちに徳川御三家の始祖となった。

お奈津(おなつ、1581-1660年)
伊勢の浪人・長谷川氏の娘という。兄が家康に仕えていたことから慶長2年(1597年)に17歳で
召し出されて、当時56歳の家康の側室になったといい、2人の間に子はなかったという。
家康死後は仏門に入って「清雲院」と号した。
お梅(おうめ、1586-1647年)
豊臣一門衆である青木一矩の娘。家康の外祖母・於富の方(華陽院)が叔母にあたる関係から
慶長5年(1600年)に15歳で奥勤めとなって当時59歳の家康の側室になったという。
のちに本多正純の継室となった。
お六(おろく、1597-1625年)
今川家臣・黒田氏の娘。元々はお梶の小間使いであったが、家康が目をつけて側室とした。
生誕年で計算すると家康との年の差は55もあるため、2人の間に子はなかったと思われる。
家康死後には出家して「養儼院」と号し、のちに喜連川義親の継室になったという。

信寿院(しんじゅいん、?-?年)
信寿院とは法名で、出家前は「富子」という名だった。それ以外のことは不明。

どんだけ武田女子が好きなのか・・・呆

2 三方ヶ原の戦いで軽く討てたはずの家康を討たなかった信玄
徳川家康は武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると考え籠城戦に備えていたが
武田軍は二俣城攻略から遠州平野内を西進し浜松城を素通りした
これを知った家康は背後から襲う積極攻撃策に変更し織田からの援軍を加えた連合軍を率い
浜松城から追撃に出るも逃げ帰った
・・・らしく徳川家康三方ヶ原戦役画像なる脱糞の肖像画を残している←ワザとらしい
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3 
1582年の甲州征伐で諏訪家と織田家の血筋を見殺しにした勝頼於天目山遂討死図
武田勝頼の長子 : 信勝の勝親は武田氏の支族である栗原氏により助けられているが
勝頼と息子の信勝は諏訪家(諏訪御料人)と織田家(龍勝院)の血筋を引くため殺された

4 家康の息子に武田家を再興させている
1582年に織田信長・家康連合軍による甲州征伐で武田家が滅亡すると
家康は同年に家康の側室とした信玄の娘:下山殿との子である五男の信吉武田の姓を名乗らせ
武田家を再興させた
下山殿は家康の従姉(いとこ)

5 久能山東照宮は信玄の久能城跡地
家康の遺体が葬られていることで知られている久能山東照宮は
元々信玄が久能城を築城した場所であった
家康は生前この久能の地を「駿府城の中の本丸」と重要視していた

6 世良田東照宮にある武田家の「花菱」は家康の伯母 : 三条家の家紋に由来
日光東照宮と久能山東照宮の二つを直線で結んだところに位置する世良田東照宮の建物は
家康が亡くなった時に日光に建てられたものを移築したものといわれている
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この本殿の梁には徳川氏の「葵紋」を支えるように武田氏の「花菱」が描かれている
この「花菱」は信玄自身を象徴するものとして「風林火山」の旗とともに戦で掲げられたもの
また武田家の妻女が使うなどした裏家紋でもある
信玄の正室(三条の方)の三条家の家紋である三条唐菱花が原型である
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7 人相がクリソツ
観相学の観点から三人の肖像を見ると、目・鼻・口が類似しているといわれている
於大の方も信玄・家康も美形にはほど遠い顔立ちである3398f2dc於大の方33
於大の方6444みんな下膨れでどよ~んとした目つき

豊臣秀頼は美形一家で有名な長身の織田家の血筋
家康が淀殿(信長の娘)の子供の豊臣秀頼を初めて見た時に跡継ぎの秀忠と見比べ見劣りすることに
とても嫉妬をしたと言い伝えられている
性格も闊達で都でも女性から奇声が上がるほどの男前の秀頼を生かしておくものかと
意地でも織田信長の血筋を断つ決心をした
・・・気持ちは解る
※息子をヒーローにしたかった信虎の差配で信玄の肖像画や銅像などは
本人とは真逆の威厳ある強面の人相になっている
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信虎の肖像画が盛りすぎでなければ親父の信虎の方が苦み走ったいい男だ信虎
8 信玄を敬愛してやまない家康
信玄の死後に彼の死を喜ぶ家臣たちに家康が
「信玄公の死を喜んではいけない。彼はこの徳川家にいろんな大切なことを教えてくれた
偉大なお方だったのだ。悲しむどころか喪に服すべきだろう」

と言ったと伝えられている

9 稀にみる漢字の軍旗
今川家軍師の太原雪斎から中国の孫子・孔子など中国の教育を受けた家康は
孫子を引用した信玄(伯父)の疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山に習い
家康は厭離穢土欣求浄土という源信の『往生要集』冒頭の章名を馬印に用いた
漢字を使用した馬印信玄と家康だけである 
※信玄の名前は比叡山延暦寺の源信和尚からきているimg_0












10 今川家への人質作戦は天皇の武士集団である平家対策(軍略)
竹千代は武田家より格下の今川家に英才教育の為と軍略の一環で養子に出された
養父:今川義元と伯父:武田信虎をとり元信(もとのぶ)と名乗っていた時期がある

11 
信玄の位牌と一緒に収められている家康の位牌於大の方の峯薬師像
信玄が建立した甲斐善光寺に家康の母が家康を授かった時に祈願していた秘仏・峯薬師像がある
善光寺によると武田信玄が三河から持ち帰ったということになっている
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御朱印張にも武田菱と葵の御紋が入っており建物にも両家の家紋がある500_51382791
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12 武田信虎の娘『武田禰々』と家康の母『於大の方』は同一人物
武田禰々(禰々御料人)
は戦国時代の甲斐国主:武田信虎の三女で武田信玄の異母妹
※母親は側室:今井氏娘(西昌院)楠浦氏、工藤氏、松尾氏、上杉憲房前室のいずれか
といわれているが追跡不能
16才で病死したとされている1528年- 1543年
信濃・諏訪領主の諏訪氏に嫁ぎ諏訪頼重との間に寅王丸を授かっている
その後寅王丸の名が歴史に出てくることはなく病死したのか仏門に入ったのか
あるいは殺害されたのか消息は不明となっている

於大の方(伝通院)
1528年 - 1602年は松平広忠の正室で徳川家康の母
1850年に従一位の贈位があった
(提供:ウィキペディア)

この2人が同一人物であることは別の機会に紹介したい
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於大の方
本名
武田禰々
EarthChecKingが知る限り
日本一数奇な人生をおくった女性
彼女には第4の人生も用意されていた
武田禰々 ⇒ 諏訪頼重正室 ⇒ 於大の方 ⇒ ( ? )
この絵図を書いたのは一体誰か

戦国最強と謳われ恐れられた武田信玄
ではなくその父
甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主:武田信虎その人であった

日光東照宮の見ざる言わざる聞かざるの意味が心底身に染みる知られざるストーリー
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これは小説でも都市伝説でもない
隠蔽されてきた歴史のほんの1ページにすぎない
私たちが学ばされてきた歴史は嘘に嘘を重ねた偽歴史だったのだ

とゆーか未成熟の子供の頃に真実の歴史を教えられていたら・・・
間違いなく人間不信・・・
いいえ
生きる意味や希望なんか持てないと思う
表の歴史は子供に見せる絵本のように
忖度された歴史でよかったのかもしれない・・・

カテゴリ: 日本・日本史・侍・大和魂・大和撫子
カテゴリ: 日本史上の歴史人物
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