徳川家康と武田信玄は親子









桶狭間の戦いの黒幕は武田信玄 ※今川家臣:葛山信貞は信玄の子供
の続きです
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徳川家康は武田家との繋がりが異常なくらいに深かった
このことは表の歴史では決して語られることのない事実だ

親密すぎる徳川家と武田家
1 家康の妻は20人中5人が武田家所縁の女性
築山殿(つきやまどの、?-1579年)
家康の正室。今川家の血脈を受け継ぎ、家康の人質時代にその正室となる。
のちに武田家との内通疑惑があがり家康から死罪を命じられ嫡男信康とともに生涯の幕を閉じた。

朝日姫(あさひひめ、1543-90年)
家康の継室。秀吉の妹にあたる。もともと結婚していたが、秀吉が家康を懐柔する際に
強制離縁させられ無理矢理に家康に嫁がれた。かなり強引な形での政略結婚の犠牲者である。
家康との間に子はいない。

小督局(こごうのつぼね、1548-1615年)
家康の最初の側室であり、家康二男・結城秀康の生母として知られる。
はじめ築山殿の侍女であったが、風呂場で家康の手付となって秀康が産まれたという。
築山殿が彼女の妊娠を知ったとき、寒い夜に裸にされて城内の庭の木にしばり付けられ
これをたまたま見つけた家康の家臣・本多重次に保護され秀康を出産したという逸話も伝わっている。
西郡局(にしごおりのつぼね、?-1606年))
今川家臣・鵜殿長持の娘。1564年頃に家康の側室となり翌年には督姫を産んでいる。
西郷局(さいごうのつぼね、1552?-89年)
遠州の名もない家柄の娘。通称はお愛の方。江戸幕府2代将軍・秀忠と松平忠吉の母でもある。
美人で温和な人柄といい家康のほか周囲の家臣や侍女らにも信頼されて好かれていた。
阿茶局(あちゃのつぼね、1555-1637年)
武田家臣・飯田氏の娘信長暗殺・築山殿殺害の1579年に家康に召し出された。
長男の神尾守世はのちに徳川秀忠に近侍している。
家康との間に子はなかったが1614年の大阪冬の陣の際には和睦交渉の使者を務めるなど
家康から諸事を任されることも多かった。
1620年に秀忠の息女・和子入内の際には母儀代を務め従一位に叙せられた。

お牟須(おむす、?-1592年)
武田家臣・三井氏の娘武田が滅亡し本能寺の変があった1582年に家康の側室となった。

下山殿(しもやまどの、1564?-91年)
武田信玄の娘1582年に家康の側室となった。家康との間に五男・万千代(武田信吉)を設けている。

お竹(おたけ、1565-1637年)
武田信玄の娘。 武田一門の市川家は家康が信玄ゆかりの姫を探していると聞きお竹の方を伴った。
家康は一目見てお竹の方に信玄の面影を見た。
生まれてからずっと「信玄様によく似ている」と言われて育っている。

松(まつ、?-?年)
法名を「法光院」という。1582年(天正10年)に家康の落胤とされる松平民部を産んだというが
定かではない。

茶阿局(さあのつぼね、?-1621年)
遠江の百姓の娘といい、はじめ遠州金谷宿の鋳物職人と結婚して一女を産んだが
彼女に言い寄る土地の代官に夫が殺害されたという。
このとき茶阿局は路上で鷹狩に来ていた家康に仇討ちを直訴したことがきっかけで
家康に召しだされたという。
お仙(おせん、1570-1619年)
武田家臣・宮崎泰景の娘。阿茶局が1589年家康に引き合わせた。
お亀(おかめ、1573-1642年)
山城国出身で志水氏の娘という。後家であったが、家康に見初められて側室となる。
家康との間に2人の息子・仙千代と義直を設けている。
仙千代は夭折し、義直は徳川御三家のひとつ尾張徳川の始祖となった。
普照院(ふしょういん、?-1617年)
北条氏の旧臣の娘といい、家康との間に四女・松姫を設けたというが定かではない。
家康が亡くなった翌年に駿府城で死去したという。
お梶(おかじ、1578-1642年)
出自は定かでないが、太田康資の娘、もしくは養女とする説などがある。
家康が江戸へ移封となった天正18年(1590年)、13歳のころに家康に仕えたとされている。
家康の意向で一度は松平正綱に嫁いだが、家康の元に戻り、家康の末子・市姫を産んでいる。 
家康死後は落飾して英勝院と称した。
お万(おまん、1580-1653年)
正木頼忠の娘。三島の宿で女中をしていた16~17歳のころ、入浴中の家康に見初められて
側室になったという。
家康との間に頼宣と頼房の2人の息子を設け、彼らはのちに徳川御三家の始祖となった。

お奈津(おなつ、1581-1660年)
伊勢の浪人・長谷川氏の娘という。兄が家康に仕えていたことから慶長2年(1597年)に17歳で
召し出されて、当時56歳の家康の側室になったといい、2人の間に子はなかったという。
家康死後は仏門に入って「清雲院」と号した。
お梅(おうめ、1586-1647年)
豊臣一門衆である青木一矩の娘。家康の外祖母・於富の方(華陽院)が叔母にあたる関係から
慶長5年(1600年)に15歳で奥勤めとなって当時59歳の家康の側室になったという。
のちに本多正純の継室となった。
お六(おろく、1597-1625年)
今川家臣・黒田氏の娘。元々はお梶の小間使いであったが、家康が目をつけて側室とした。
生誕年で計算すると家康との年の差は55もあるため、2人の間に子はなかったと思われる。
家康死後には出家して「養儼院」と号し、のちに喜連川義親の継室になったという。

信寿院(しんじゅいん、?-?年)
信寿院とは法名で、出家前は「富子」という名だった。それ以外のことは不明。

2 三方ヶ原の戦いで討てたはずの家康を討ち取らなかった信玄
徳川家康は武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると考え籠城戦に備えていたが
武田軍は二俣城攻略から遠州平野内を西進し浜松城を素通りした
これを知った家康は背後から襲う積極攻撃策に変更し織田からの援軍を加えた連合軍を率い
浜松城から追撃に出た
連合軍は武田軍に撃破され日没までのわずか2時間ほどの会戦で敗北壊走した
武田軍の死傷者200人に対し徳川・織田軍は10倍の死傷者2,000人であったが
家康本人を討ち取ることはしなかった

3 家康の母である於大の方が武田晴信(信玄)の側室となっていた
家康の母には空白の数年間があり同時期に信玄が家康の母を側室として迎えていた
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於大の方(1528-1602年)
清和源氏・藤原北家近衛家という由緒正しい水野氏の娘 ※武田氏も清和源氏
1541年に松平広忠に嫁ぎ15才になる1543年に竹千代(家康)を岡崎城で出産したとされている
※1542年 禰津御寮人(実名出生不詳)が武田晴信(信玄)の側室として嫁いだとされているが
この禰津御寮人が於大の方である

・武田家の参考年表
1533年 上杉家より正室の上杉の方を迎える ※信玄12才
1536年 京三条家より三条の方(妹は信長包囲網の核:石山本願寺顕如の妻)武田家へ嫁ぐ ※信玄15才
1541年 父親を駿河へ追放する ※信玄20才
1542年 禰津御寮人=於大の方が信玄の側室となり懐妊 ※信玄21才
1543年 家康兄弟生まれる ※信玄22才

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信玄の位牌と一緒に収められている家康の位牌と於大の方の峯薬師像
信玄が建立した甲斐善光寺に家康の母が家康を授かった時に祈願していた秘仏・峯薬師像がある
善光寺によると武田信玄が三河から持ち帰ったということになっている
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御朱印張にも武田菱と葵の御紋が入っており建物にも両家の家紋がある500_51382791
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甲州征伐後に武田家を再興している
1582年に織田信長・家康連合軍による甲州征伐で武田家が滅亡すると
家康は同年に家康の側室とした信玄の娘:下山殿との子である五男の信吉に武田の姓を名乗らせ
武田家を再興させました。

6 久能山東照宮は信玄の久能城跡地
家康の遺体が葬られていることで知られている久能山東照宮は
元々信玄が久能城を築城した場所であった。
家康は生前この久能の地を「駿府城の中の本丸」と重要視していた。

7 世良田東照宮にある武田家の「花菱」
日光東照宮と久能山東照宮の二つを直線で結んだところに位置する世良田東照宮の建物は
家康が亡くなった時に日光に建てられたものを移築したものといわれています。
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この本殿の梁には徳川氏の「葵紋」を支えるように武田氏の「花菱」が描かれています。
この「花菱」は信玄自身を象徴するものとして「風林火山」の旗とともに戦で掲げられたものです。

8 人相が似ている
観相学の観点から二人の肖像を見ると、目・鼻・口が類似しているといわれています。
於大の方も信玄も美形にはほど遠い顔立ちです。

美形一家で長身の織田家とは雲泥の差の息子:秀忠

家康が淀殿の子供の豊臣秀頼を初めて見た時に跡継ぎの秀忠と見比べ見劣りすることに
とても嫉妬をしたと言い伝えられています。
性格も闊達で都でも女性から奇声が上がるほどの男前の秀頼を生かしておくものかと
意地でも織田信長の血筋を断つ決心をしたそうです。
武田信玄と徳川家康











信玄の肖像画や銅像などは本人とは反対の厳めしい人相になっている
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9 信玄を敬愛している家康
信玄の死後に彼の死を喜ぶ家臣たちに家康が
「信玄公の死を喜んではいけない。彼はこの徳川家にいろんな大切なことを教えてくれた
偉大なお方だったのだ。悲しむどころか喪に服すべきだろう」

と言ったと伝えられている。

家康の双子の兄弟である葛山信貞は於大の方を三河に帰した後
信玄の側室である油川夫人が育てたと思われる

兄弟を駿河今川の国境である東西に分けて住まわせた理由
西:三河国(愛知県岡崎市) 尾張 織田との国境 ※駿河今川の領地
東:葛山領(静岡県裾野市) 相模 北条との国境
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信玄の子供2人を駿河の東西に配した理由としては双子である事実を隠すことと
海を欲していた信玄が今川を滅ぼす計画を立てていたためである
後に今川家により三河の松平家の竹千代(家康)は人質となり英才教育を受け育つ
これは源氏という同族であった為に優遇されたものである
※武田・松平・今川⇒源氏(朝鮮人勢力) 織田・北条・長尾⇒平氏(日本人勢力)
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徳川家康は1615年の大阪夏の陣で真田氏の鉄砲に撃たれ死んでいる
天海和尚(明智光秀)により双子の影武者とすり替えられ翌年1616年には他界したとなっている
実際に死んだかどうかは不明であるが天海が家康の死を隠すため(影武者とバレないように)
毒殺した可能性は高い
影武者は同年4月17日巳の刻(現在の午前10時頃)に駿府城において75歳(満73歳4ヶ月)で死去した
死因については食中毒説が長く一般化されてきたが実際にはヒ素を盛られた可能性があった

天海が推薦した春日局は家康との間に家光をもうけ家康の命で秀忠と江の長男とすり替えた
いいやもしかしたら天海との子供だったのかもしれない
※江はお市の方(平氏)の娘
ふたを開けてみれば天下を取ったのは源氏で土岐氏の明智光秀(天海)その人であった
光秀は自分が大将にならず常に
矢面に立たない二番手として天下取りゲームに参加し勝ったのだ
徳川幕府は明智幕府といっても過言ではない
世情に長け戦国時代というサバイバルを知り尽くした明智光秀には唯一影武者がいなかった

日光東照宮
渡来朝鮮人徳川家康明智光秀(天海)の源氏最大の反日神社
徳川家康明智光秀は鎌倉幕府・室町幕府に継ぎ渡来系の反日政府:江戸幕府を開き
物部神道の天皇家である織田信長を暗殺
お市の方の娘であり秀忠の正妻:江をも春日局(家光の母)に殺させた
※三代将軍:家光は春日局(ふく)と家康の子供
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徳川家康を祀っている日光東照宮
皇室の血統である平氏の織田家門番として扱っている
不敬で穢れた場所であるから日本人がありがたがって行くところではない
※木瓜紋(織田家) ※神紋・家紋⇒桔梗紋(明智家) 三つ葉葵(徳川家)
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皇室では葵紋は見たことがないが
武田菱は目にすることが多い
清和天皇から出た清和源氏(渡来朝鮮人)が皇室に根付いている証拠だ
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日光東照宮の見ざる言わざる聞かざるの意味がそろそろ理解できることだろう
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これは小説でも都市伝説でもない
隠蔽されてきた歴史のほんの1ページにすぎない
私たちが学ばされてきた歴史は嘘に嘘を重ねた偽歴史だったのだ
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カテゴリ: 日本・日本史・侍・大和魂・大和撫子
カテゴリ: 日本史上の歴史人物
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