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彼は尋常ならぬ野心家であり、それが諸悪の根源となった。
ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスは自著『日本史』の中で
豊臣秀吉の抜け目ない醜悪な性格をこう評した。
「宣教師ルイス・フロイス
下賤の身でありながら、天下人に上り詰めた秀吉。
日本人の常識とは異なる、外国人が見た「秀吉の裏面」とは。

「悪魔の手先」「実に悪賢い」外国人が見た豊臣秀吉の裏面
容貌の醜くかった秀吉は次々と主君を変え、最後は信長に仕えた。
秀吉が栄達の道を歩んだバイタリティーの源泉は、どこにあったのだろうか。
秀吉は遍歴する商人的(連雀商人)な活動をしており、そこから得られる
人的ネットワークの活用などに理由が求められてきたが、それは正しいのだろうか。

秀吉が出世を望んだ背景には、貧しさから這い出そうとする、仕事に対するひたむきさや
創意工夫があったと考えられないだろうか。
以下、外国の史料を用い、そこから明らかになる秀吉の姿を通して考えてみよう。

『一六〇〇年及び一六〇一年の耶蘇会の日本年報』には、秀吉が貧しい出自であったこと
金持の農夫に仕えて薪拾いをしていたことに続けて、次のように記している。
  
このころ彼は藤吉郎と呼ばれていた。その主人の仕事をたいそう熱心に、忠実につとめた。
主人は少しも彼を重んじなかったので、いつも森から薪を背負って彼にいいつけることしか
考えなかった。彼は長い間その仕事に従事していた。

秀吉は貧しい生活から抜け出すため、熱心な仕事ぶりを見せていた。
同様の記述は、16世紀末に来日したスペイン人の貿易商人、アビラ・ヒロンの『日本王国記』
にも書かれている。
『日本王国記』は、アビラ・ヒロンが執筆した日本の記録である。
アビラ・ヒロンは長崎を中心に東南アジア方面で活躍し元和5(1619)年頃まで日本に滞在した。

特に、最初の3章の部分は日本社会をよく見聞し、当時の状況をよく伝えていると指摘されている。
同書には秀吉について、次のように記している。

その頃美濃の国の辺境には、さる裕福な百姓がいたが、他の大勢の下男にまじって
中背の、おそろしく勤勉で、また実にものわかりのよい、藤吉郎(秀吉)という若者がいた。
しかし、なにしろこの家では、他の仲間といっしょに山から燃料のたきぎを担いで持ってくるという
のが仕事だったのだから、さして重要な召使いではなかったに違いない。

秀吉が富農のもとで下男として薪拾いをしていたこと、また大変勤勉で聡明であったことが
記されていが所詮秀吉は下賤の出身でもあり大した地位や役割が与えられることはなかったという。
それでも秀吉は辛抱して熱心に働いたのだから、その粘り強い性格には驚嘆せざるを得ない。

秀吉に関する『日本王国記』の記述はこれだけに留まらず
秀吉が酒造りに従事していたことも書いている。内容を要約すると、次のようになろう。
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▲木下藤吉郎秀吉の像と墨俣城=岐阜県大垣市墨俣町

ある日、秀吉は同僚たちと言い争いになった。
主人が理由を尋ねると、揉めている原因は、同僚たちが多量の薪を消費していることだった。
秀吉は、少量の薪で十分であると考えたのである。
訴えを聞いた主人は、すぐさま秀吉を酒造りの役人に抜擢した。


酒造りは、薪拾いよりも重要な役目だった。
秀吉は酒造りの指導者的な立場につくと、的確な指示を作業従事者に与えたという。
主人は秀吉に特別な恩賞を与えることもなかったが、二度も同じ指示を与える必要もなかった。
秀吉は、図抜けた優秀さを備えていた。やがて、秀吉は下賤の出身ではなく
身分ある人の子息であるとの噂が広がったのである。

秀吉の能力の源泉については、非農業民的な性格から理解されてきた節がある。
しかしながら、こうした一面を見る限り、秀吉の高い能力は生来のものであり、ことさら
卑しい身分や出自にこだわる必要はないと思う。
言うまでもなく、連雀商人がすべて情報収集能力に長けていたわけではない。
ルーチン業務に疑問を抱き、常に改善を意識する秀吉の姿勢は、卓越した天性の能力であり
後天的には身に付かなかったのではないか。

秀吉は各地を遍歴する中で、ついに信長に仕えた。
秀吉の聡明さに惚れ込んだ信長の姿は、多くの書物に逸話が記されている。
李朝の姜沆(カンハン)の『看羊録』は、日本の内情を秘密裏に本国政府に報告したものである。
そこには、秀吉が富農の下を出奔して、信長に仕えた頃の話を次のように記している。 

秀吉は壮年になってから自分から奮発し、信長の奴隷となったが、これといってとくに
ぬきんでるところもないまま、関東に逃走して数年を過ごし、また戻って(信長のもとに)自首した。信長はその罪を許し、もとどおりに使った。秀吉は一心に奉公し、風雨、昼夜もいとわなかった。

秀吉が松下加兵衛の下を飛び出したのは、天文23(1554)年だといわれているが定かでない。
ただし、この話は強ち嘘と否定できないようである。

『太閤素性記』によると、若き秀吉は幼友達の一若を頼って、信長への仕官を乞うたという。
一若は実在の人物であり、当時信長の小人頭を務めていた。
秀吉がいったん関東に逃走したとの記述はほかにないので、単に出奔したということになろう。

『看羊録』の記述には、興味深い続きのエピソードがある。次に示しておこう。

信長はいつも、多くの僕らに市中で物を買わせるのに、必ず高価なものを求めさせたが
その値段が少しでも合わないと、買わずにもどらせた。
秀吉にやらせるようになってからは廉価で貴重なものを買い、それも手早くやってのけたので
信長は大変ふしぎがった。

秀吉の才能が遺憾なく発揮されたと逸話であるが、この記述には注記が施されており
実際は、秀吉が、信長の恩遇をねらって、自分の金銭の一半を加えたのであった。
しかし、他の僕らが知らなかったのである
と記されている。
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▲織田信長像

秀吉が代金を補填したという、話の裏があった。
しかし、自身の金銭を割いてまでも信長の寵遇を得ようとした秀吉の発想は
ほかの者にはなかったと考えられる。

信長が秀吉を重用したのは、その勤勉実直な姿だった。
『信長公記』巻十には、信長のために中国方面で奔走する秀吉を評して

これは見上げるべきであると信長は評価した。
夜を昼に継いで駆け回り、秀吉の働きは比類なきことである

と記している。
逆に、そこまでしなければ、秀吉は信長から認められなかったに違いない。

信長の周辺には、実に多彩な人材が仕えていた。
その中で秀吉の優れた経済感覚、そして勤勉な姿は他の追随を許さなかった。
秀吉が薪奉行をした際、従来の3分の1の量で済む提案をした例を挙げたが
その仕事ぶりを示しており興味深い。

秀吉が従来の職務内容に飽き足らず、革新性を示したエピソードには事欠かない。
すべての面において、秀吉は信長の「かゆいところに手が届く」存在だった。
秀吉は貧しい出自ながらも、鋭く問題点を見抜き、改革を行う姿勢が信長から高い評価を得た。
それだけではない。命じられたことに従い、東奔西走し信長に尽くした。
そうでなければ、並み居る諸大名たちと肩を並べることはできなかったに違いない。
しかし、勉励刻苦で改革提案型の秀吉には、裏の顔があった

秀吉の醜悪な姿を告発しているのが、フロイス『日本史』16章の記述である。
フロイスは秀吉が「抜け目なき策略家」であったと指摘した上で、次のように述べている。

彼(秀吉)は自らの権力、領地、財産が増して行くにつれ、それとは比べものにならぬほど
多くの悪癖と意地悪さを加えて行った。
家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われ者でもあり
彼に対して憎悪の念を抱かぬ者とてはいないほどであった。

この記述は、秀吉が信長の死後に天下人となり天正13年に関白に就任して以後の内容である。
しかも、秀吉はキリスト教に理解を示さなかったので、その点で厳しい評価となっている点は
認めざるを得ない。
この前段においてフロイスは、秀吉を「悪魔の手先」と評価した。
フロイスにとって、秀吉は神をも恐れない悪魔だった。
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▲長浜城天守閣跡と秀吉像=滋賀県長浜市

この後フロイスは、秀吉が人の意見を聞き入れず、常に独断専行であり、誰も彼に意見しなかったことを挙げている。
さらに、秀吉が恩知らずであり、最大の功績者を追放したり、不名誉に扱ったり
恥辱で報いた事実を告発している。そして、次のように、秀吉の性質を断言した。

秀吉は尋常ならぬ野心家であり、その野望が諸悪の根源となって、彼をして、残酷で嫉妬深く
不誠実な人物、また欺瞞者、虚言者、横着者たらしめたのである。
彼は日々数々の不義、横暴をほしいままにし、万人を驚愕せしめた。
彼は本心を明かさず偽ることが巧みで、悪知恵に長け人を欺くことに長じているのを自慢としていた。

人間の感性や性質は、今も昔もさほど変わらないと思う。
現代社会においても、こうした人物は少なからずいるだろう。
出世の階段を駆け上る中で、秀吉の人格は以前からすっかり変わり果ててしまった。
『日本史』では、秀吉にありとあらゆる罵詈雑言を浴びせ掛けているが
フロイスは秀吉の抜け目ない醜悪な性格を鋭く見抜いていたのである。

こうした秀吉の変わり果てた酷い人格は、別のところでも語られている。
姜沆の『看羊録』では、慶長3(1598)年における日本と朝鮮との講和に際し
秀吉が諸将を厳しく叱責している姿について

秀吉の容貌や言辞の思い上がった傲慢さは想見するに思わず心が痛み骨が削られるようである

と評価している。
相手に対し気分が不快になるほどの言葉を秀吉は吐いていたのである。

続けて姜沆が指摘するのは、家臣らを翻弄する秀吉の姿であった。
次に、関係部分を掲出することにしよう。

秀吉の性質は、実に悪賢い。
専ら下らぬおどけごとで部下をもてあそび家康らを侮弄するのは赤子を弄ぶような具合であった。
また、喜んで水売りや餅売りのまねをし、家康らを通行人に仕立てて何か買わせる様子をさせたり
一文一鐺の下らないいたずらごときの腕くらべをさせたりした。

秀吉は自らが権力あるのをよいことに、家康ら名だたる武将をコケにして、「○○ごっこ」のような
遊びに興じていた。
また、自らも商売人を演じて見せ、諸大名に客を演じさせていた。
残念ながら、「一文一鐺」の意味は不明である。
こうした下らない遊びに付き合わされた諸大名は、相当な迷惑であったに違いない。

このように秀吉が自身の遊びや趣味に諸大名を巻き込んだ例は、いくつか知られている。
たとえば、秀吉が能に狂っていたことは、よく知られた事実である。
秀吉自身の生涯をたどった演目を作らせたほどだ。
彼は能を鑑賞するだけに止まらず、諸大名に命じて演じさせていた。お茶も同じである。

お茶といい、能といい、秀吉は自身の趣味を諸大名に押し付ける性癖があった。
それもこれも、抑圧された厳しい幼年時代の経験が大きく影響しているのではないだろうか。

秀吉の変わった行動は、次第にエスカレートしていった。
姜沆の『看羊録』の言葉を借りるならば、「専ら権謀術数で諸将を制御する」というやり方である。
次に、その具体的な例を挙げておこう。

ある時などは、「秀吉が今夜は東に泊まる」などと命令を出しておいて、夕方には西にいたりした。
まるで曹操の疑塚の亜流である。ある時は、猟に出て、秀吉が死んだふりをしばらく続けた。
従者らは、あわてふためき、なすすべを知らなかった。
その大臣(大名)らは、平然としたままで動きもしなかった。
すでに、それが偽りであることを知っていたのである。

秀吉は死んだふりをした後、生き返った所作をしたという。
秀吉は家臣をからかった意識しかなかったかもしれないが、当の家臣で特に事情を知らない者
にとっては、心臓が止まるような思いをしたであろう。
しかし、現実に秀吉のイタズラは世に知られており、むしろ上層に位置する家臣らは
慣れっこになっていた。

ちなみに「曹操の疑塚」とは、三国志の英雄、曹操があらかじめ72基の墓を作り
死後埋葬しても、どれが本当の墓かわからないようにしたという故事である。

秀吉自身にとっては単なる悪ふざけであったかもしれないが、姜沆から見れば諸将を
愚弄する行為にしか見えなかった。
そうした意識の差異には、注意すべきかもしれない。
秀吉も天下人である以上、常軌を逸脱した行為は、常識的に考えて慎まねばならないだろう。
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▲豊臣秀吉画像(佐賀県立名護屋城博物館蔵)

秀吉は家臣を弄(もてあそ)ぶことを常としていたが、それは少なからず
彼の出自と関係したと考えられる。
自分より高い出自の大名らをからかうことに、大きな快感を得ていたのではないだろうか。

秀吉は一介の百姓から天下人に上り詰めた苦労人であり、テレビの時代劇などでは
明るくひょうきんなイメージがある。
しかし、それは小説家などが作り上げた偽りの姿に過ぎない。
自らの出自に強いコンプレックスを抱いた秀吉は、貧しさを克服し出世する過程において
かなり嫌な性格の人間になったのではないだろうか。
※主要参考文献 渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書、2013年)
(提供:ironna)

ルイス・フロイスは秀吉についてはこうも述べている

極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。
優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。
ほとんど全ての者を汝(うぬ)、彼奴(きゃつ)呼ばわりした。
身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。
目が飛び出ており、シナ(中国
)人のようにヒゲが少なく付け髭をしていた。

秀吉の出自
秀吉は農民の出とされているが事実は乱破(らっぱ)・素破(すっぱ)と呼ばれていた忍者の出身
※忍者は飛鳥時代から江戸時代に大名や領主に仕えたり独立して諜報活動・破壊活動・浸透戦術
謀術・暗殺などを仕事としていた集団である
ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』には秀吉は「木こり」出身と書かれているが
木こりなどは乱破たちの副業だった

秀吉は今川家・徳川家と渡り歩き蜂須賀正勝(小六)の父親である蜂須賀正利にも仕えていた
蜂須賀家は川並衆という木曽川の水運業を行うことで利益を得ていた土豪勢力の集団の1つで
諸系図によれば斯波氏の支流として清和源氏(朝鮮人)の末裔を称している
また蜂須賀家は信長の側室・生駒吉乃の父である生駒家宗(忍者屋敷)とも同郷であった

浅野長勝(源氏)の養女で杉原定利の娘・おねと結婚するが杉原家は木下も名乗っている
秀吉の木下はここからとっている
※木下は渡来人の苗字でもある

器用な秀吉の性格を見抜き信長の下にいち早く工作員として送り込んだ者たちがいる
信玄を担ぎ上げ父親信虎を今川に預けた武田家一期四天王の
甘利虎泰・板垣信方・飯富虎昌・小山田虎満らである
※信玄は当時10代後半の若者だったので重臣たちが主導権をにぎっていた⇒武田家は源氏嫡流
250武田信玄と朝鮮半島 1 ※武田信玄は渡来人







演出された本能寺の変

武田・家康・明智・丹羽らと結託し影武者の信長を本能寺にて殺す計画を立てたが
影武者は地下から助けられ舟で九州に落ちのびた
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秀吉の末期
秀吉の最期は病死とされてもいるが実際は信長の娘である淀殿(茶々)に殺されている
ヒ素も当然ながら盛られていたとは思うが決定的な最期は窒息死である
しかもその方法が聞いたことがないほど悍ましい方法だった話は知られていない

糞尿に浸した汚物まみれの濡れた和紙を
一枚一枚秀吉の顔に重ねていき窒息死させた

茶々は源氏(朝鮮人勢力)の家康・秀吉・光秀・足利らが父親:信長を本能寺の変の3年前に
暗殺していたことを知っていた

後を引き継いだ秀吉の影武者は後に家康に殺された
秀吉と組んでいた明智光秀(天海)が家康に影武者であることをバラしたことにより
「影武者ならさっさと殺してしまえ」ということになったようだ
後に秀吉の墓は家康により鎖でぐるぐる巻きにされた後に取り壊された

家康も1615年の大阪夏の陣で真田の鉄砲に撃たれ死んでおり天海(明智光秀)により
双子の影武者とすり替えられ翌年1616年には他界したとされている

詰まる所は江戸幕府を影で操り実権を欲しいがままに手中に収めた
源氏:土岐一族の
明智光秀が天下をとった
いや
日本を乗っ取ったというのがオチである
光秀だけが影武者もなくサバイバルを生き残ったのだ

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