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古代イスラエルと長野県の諏訪大社は旧約聖書で結ばれていた
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それは社内の建築様式・御柱祭・御神渡り・御頭祭・神山の名前など
実に様々な視点から判明している
皆さんもご存知の通りイスラエルからは国の調査機関アミシャブが来日していることでもわかる
今更恥ずかしくて取り上げる内容でもないが外せない記事なのでUPしてみました



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諏訪大社
(すわたいしゃ)
は、長野県の諏訪湖の周辺に4か所の境内地を持つ
全国各地にある
諏訪神社の本社で式内社(名神大社)、信濃国一宮。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「梶の葉」。
全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社である。旧称は諏訪神社。
通称として「お諏訪さま」「諏訪大明神」等とも呼ばれる。
※⇩クリックで拡大します
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国内にあるもっとも古い神社の1つとされていますが創建時期は不明。
諏訪大社は旧約の民の物部氏の神社なので、御神体はです。
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御頭祭(
ミシャクチ祭
諏訪大社には4つの宮がある中のもっとも古い前宮では、毎年4月15日
御頭祭(おんとうさい)(ミシャクチ祭とよばれる祭礼が行われます。
※ユダヤ過越しの祭りの期間と同時期
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鹿の生首などが供えられたことから御頭祭とよばれます。 

75頭の鹿を生け贄に捧げました。 
現在では剥製を使っています。
この鹿は、「神が備えてくださった物」と信じられ特別視されました。
この鹿の剥製が、守矢史料館に展示されています。
御頭祭では、神前に75頭の鹿の頭を供えましが、毎年必ず1頭は耳の裂けた鹿がいたといいます。
ミシャクチアラム語の「ミ・イツャク・ティン」でイサクに由来するの意味です。

イサクの燔祭
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平安時代 – 江戸時代を通じて上社では諏訪氏が、下社では金刺氏が大祝を務め
末社は2万5000社に及ぶ。                                 
下社の神主家は金刺舎人を祖とし、阿蘇大宮司の阿蘇氏と祖を同じくし、科野国造家から
分かれたものと伝えられる。
上社の神主家は本姓が明かではなく、一般に神家といっている。

上社 本宮
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上社 前宮
前




















下社 
春宮
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春




































下社 秋宮
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神武皇子・神八井耳(かんやいみみのみこと)の流れに阿蘇氏・多氏・阿蘇氏・金刺氏がありますが
阿蘇氏系図によると崇神10のとき武五百建命(健磐龍命:たけいわたつのみこと)
が日向から阿蘇に入ったと伝わり科野国造(しなののくにのみやつこ・しなのこくぞう)も賜るとある。

欽明29金刺宮の時に金弓君が金刺舎人直姓を受け、その子・麻背君科野(信濃)国造に復帰する。 
麻背の子・倉足は諏訪評督になり、その後裔は金刺姓を称し
倉足の弟・乙頴(おつえい)諏訪大祝になる。
乙頴の別名は熊子・神子(くまこ)といい8才の時の夢に建御名方が現れこれが御衣木の式となる。
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健磐龍命
の第二子健稲背命科野国造に任じられ、七世の孫金弓君は欽明天皇に仕え
金刺舎人の姓を賜り、子孫はそれぞれ諏訪大神大祝諏訪評督伊那郡主帳などを世襲し
諏訪氏金刺氏諏訪神党の祖先となったという。

八坂刀売命
建御名方命の后神として、諏訪神社下社(春宮、秋宮)に祀られる神。
建御名方命との間に二十二柱の御子神をもうけた。
安曇の女神とする説がある。
『先代旧事本紀』天神紀に「八坂彦命、伊勢神麻績連等の祖」とある八坂彦命の後裔とする説がある。
諏訪湖の南に鎮座する建御名方命が、諏訪湖の北に鎮座する八坂刀賣命の元へ、 凍った諏訪湖の
氷を
盛り上げながら渡る御神渡りが有名。
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筒粥神事
長野県下諏訪町の諏訪大社下社春宮で行なわれる粥占は、 1月14日夜から粥炊舎にもうけられた
大釜のあずきがゆのなかに、葭の筒をいれ、終夜煮たて、翌15日朝、神前にそなえ
祭典をおこなったのち葭筒を割り、筒内の粥の分量を量って農作物のうちさだめられた種の
豊凶を判定する。
葭筒のながさは5寸5分で、これを42本(本数はとしによってことなる)麻で簾状に編みつらねて
巻いたものをいれる。
それぞれの筒はそれぞれの穀種にかたどり、神殿大床で1筒わり、穀菜の種類上下の品位を
神占にしたがってとなえ、社丁がこれにおうじて大声で唱えかえして神前に群れ集まった
人々に聞かせ、42種のすべてをおわって式を終了し、等級を記入した目録を社前に掲示した。2579435_23555
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祭神
上社 建御名方命 八坂刀売命 ※京都 八坂神社と関係あり 祭神:素戔嗚尊
下社 建御名方命 八坂刀売命
   八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)
   ※素戔嗚尊(=事代主)の歌「…八重垣の…」に関係あり

建御名方命は素戔嗚尊です(=事代主・大国主・大巳貴命・月読命・八大龍王…)
=旧約の神ヤハウェ=新約の神イエス・キスト
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(提供:
多次元同時存在の法則)


モリヤ山
モリヤ山はイエス・キリストが十字架で犠牲になられた「ゴルゴタの丘」です。
アブラハムがただ雛型となる行為を行っただけでなく、のちの時代にキリストが犠牲になる
その同じ場所で行われたのです。
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建御名方神は記紀では国譲りで負け諏訪まで落ちのびた神だといわれますが
諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)』によると建御名方神と八幡神は同じ神です。
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建御名方神(諏訪明神)はヤハウェを信仰していたクマソ系の物部氏で
ヤハウェはイエス・キリストです。

守矢とは守屋とも書き、物部神道(旧約神道、ユダヤ教)に固執した物部守屋を意味している
といわれます。
守矢氏が奉祭した前宮のご神体の山は「守屋山」といい、ユダヤ教徒にとって大切な
「エルサレム神殿」があったのが「モリヤ山」です。       

しかし、同じユダヤ人でも、原始キリスト教徒はイエスが全人類の罪を背負って、十字架上で
最後の生け贄となったので、動物の生け贄の儀式を行いません。

現在、全国の神社で動物の生け贄の儀式がないのは、秦氏が物部氏系の神社を新約の神殿に移行
させたからです。

そして、のちの仏教が日本に本格的に導入されてからは、動物の殺生を禁じる仏教の教えから
動物の生贅の儀式はより隠されました。



諏訪氏
三ッ葉根あり梶の葉
(国造金刺氏の後裔/清和源氏説も)
「梶の葉」は、信州の一宮である諏訪大社の神紋として有名なものである。
諏訪氏は諏訪大社上社の大祝から武士化したもので、その家紋は「梶の葉」であった。 

●梶葉紋の起り 
『諏訪大明神絵詞』によれば、神功皇后が新羅征伐のとき、諏訪・住吉の二神が
梶葉松枝の旗を掲げて先陣に進んだとあり、また、安倍高丸が謀叛したとき
坂上田村麿が伊那郡と諏訪郡との境、大田切という所で梶葉の藍摺りの水干を着て
鷹羽の矢を負い、葦毛の馬に乗った諏訪大明神に行き遭ったことが記されてある。
しかし、絵詞は室町時代はじめの作であり、坂上田村麿の時代に神紋があったとは思われないが
梶葉紋が諏訪大社の神紋として周知のことであったことが分かる。
このように、梶の葉紋は諏訪大社の神紋として、平安時代から始まったものと思われる。
鎌倉時代の公式記録とされる『吾妻鏡』の治承四年(1180)九月の条に、甲斐源氏武田太郎信義
一条次郎忠頼らが、源頼朝の挙兵に応じて出陣したとき、諏訪上社の大祝篤光の妻が夫の使いとして
一条次郎の陣所に来て、「主人篤光、源家の再興を祈って三ヶ日社頭に参籠したところが
ある夜、夢枕に梶葉紋をつけて葦毛の馬に乗った勇士が、源氏の方人と称して
西を指して鞭を揚げたのは、これひとえに諏訪大明神の示現である」と告げたことが記されている。
そもそも梶の木は神聖な木とされ、神社の境内に植えられていることが多い。
また、神事に用いられたり、供え物の敷物に使われたりした。
さらに和紙の原料にも用いられた。
また、平安時代の七夕の際には、現代のような竹や笹に飾りを付けるのではなく
梶の葉や枝が用いられた。このように古代より、梶の葉は神木として尊敬されてきたのであった。 

●足の数で、上社と下社を区別 
諏訪大社の神紋は「根梶」あるいは「根あり梶」と称され、三本梶に太い根が大地に食い込んでいる
独特なデザインである。
そして、上社では足が四本、下社は五本足となっている。
のちに一族が近世大名に生き残った諏訪氏の場合、上社の流れをひいていることから
「四本足に三本梶」を用いていた。
また梶の葉紋とは別に、諏訪大社の神使とされる鶴にちなんだ「鶴丸」も用いていた。
ところで、諏訪大社の神官は諏訪上社の諏訪氏であり、下社の金刺氏であった。
また、諏訪党を総称して神氏とも称され、多くの庶子家が分かれた。
手塚・有賀・保科・上原・知久・藤沢などの家がそれである。
そして、これら庶子家の家紋は「梶の葉」であった。
また、鎌倉時代に島津忠久が信濃国塩田荘の地頭となり、諏訪神をあがめ、のちに薩摩に移ったとき
諏訪明神を勧請したことから、薩摩にも梶の葉紋が広まった。
 
【左から:五本足に三本梶(諏訪下社)/梶の葉/平戸梶の葉】 

金刺氏
三ッ葉根あり梶の葉
(科野国造後裔)
治承四年(1180)甲斐の武田信義が、頼朝の挙兵に応じ、諏訪明神に祈って武勲をあげたとき
その奉賽として上社に平出・宮処両郷、下社に龍市・岡仁谷両郷を寄進しており
承久三年(1231)には幕府が越前国宇津目保を寄進している。
すでに前九年の役(1051)の頃から、両社の大祝および社人は祭祀のかたわら武士としても活躍し
族党を結束して神家党と呼ぶ有力な武士団に成長していた。
もと両社の神主家は系統を異にし、上社神主(大祝)家は「諏訪」、下社神主(大祝)家は
「金刺」を称したが、平安時代の後期以来、一族が武士化するにともない、著しく系図が混乱し
さらに源氏とも紛れて、どれが正系か判別が難しくなってしまった。
下社の神主金刺家は金刺舎人を祖とし、阿蘇大宮司の阿蘇氏と祖を同じくし、科野国造家から
分かれたものと伝えられる。
たとえば、『日本歴史地名大系』と『信濃史科』などは「科野国造の祖先である建稲背命七世の
後孫金弓君の二男金刺宮舎人麻背の子が蝶訪下社の神主となり」と載せ
刺氏族に諏訪・上泉・手塚の諸氏があると述べている。
『金刺系図』によれば、貞継のとき下社の大祝となったことが記されている。 
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参)諏訪と中央構造線・物部守屋神社・武居城跡155afb84e155d762ddf46d4ae4e012ed
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最後にハイブラジルという幻の島をご存知でしょうか395h
















かつてイギリスの西にあった島ですが地図にもあったにもかかわらず忽然と消えてしまいました
しかし何故か7年に1度・・・そうです寅年申年には姿を現しています
何か臭いますね
次回はそんなハイブラジルをご紹介します
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