善光寺と本田善光 朝鮮人 藤原氏戦国武将にしか興味がなかったEarthChecKingは地元ということもあり
興味本位で武田信玄の歴史・人物像を調べたのちに源氏の実態を知り清和天皇を知ることになった
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そして大化の改新にまで遡り嘘と捏造で捻じれた日本史の原点とも言える藤原に辿り着いた
藤原鎌足(中臣鎌足)を調べてから驚愕の事実のオンパレードに愕然・・・
最初は憤り混じりの驚きだけだったが落ち着いて他の時代を見てみると
大好きな戦国時代なんかの戦や問題も全て藤原問題が根底にあることが判ってきた

日本という国の歴史の発端は全て藤原鎌足から端を発していた
飛鳥・奈良・平安・鎌倉・南北朝・室町・戦国・安土桃山・江戸・明治・大正・昭和・平成
そして令和へと脈々延々と裏社会に巣食う問題
今の政治問題・犯罪・芸能・・・全ての癌がココにあった

このようにして苗字と家紋が密接に歴史と絡んでいることを知り更にその因果関係を知りたくなった

藤原氏の公家諸家は平安末期・鎌倉時代以降には公式文書以外で「藤原」を使わず
「近衛」「九条」「鷹司」「二条」「一条」など各家の名称を名乗り維新後もそれを名字とした
理由は藤原氏が百済渡来人の朝鮮人の血筋であることが世間に知られ都合が悪くなったからだ



今回の善光寺の件も藤原鎌足から武田信玄までを調べていた結果の副産物だった
最初は
そんなバカな・・・
と感じていたが腰を据えて調べてみたところ九分九厘間違いないと確信した次第

善光寺の名前の由来
天智天皇から藤原鎌足の名をもらって帰化した百済王子:扶余豊璋の弟王子の名前が扶余善光です。
藤原鎌足についてはよく知られていても、善光(禅広・禅広)については知らない人が多いと思います。
631年に百済から人質として2人の兄弟王子、豊璋と善光が日本へ送られてきました。
人質といっても、百済と日本は同盟していたので客分扱いでした。

豊璋の弟善光は、行方不明になったことにした兄の代わりに百済の王統を継ぎ
百済の王統を表す、「百済王氏」という特別な姓氏を受けて日本に帰化しました。
二人の王子の他、国を失った百済王族たちは一族配下の数千名(あるいは一万名とも)
を従えて集団で日本へ亡命してきました。
日本最古の仏像の寺の名前はこの「百済王氏」善光からとったものです。

善光寺 (信州善光寺)
は長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院で日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし
善光寺聖の勧進や出開帳などによって、江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」
と言われるようになった。今日では御開帳が行われる丑年と未年に、より多くの参拝者が訪れる。
山号は定額山(じょうがくさん)⇒奈良・平安時代、一定数を限られた官寺(国営の寺)。
(提供:ウィキペディア)

御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。
後に、信濃国司の従者として信濃国司の従者として都に上った本田善光が難波から
信濃の国へとお連れし今の長野県飯田市でお祀りされ、後に642年現在の地に遷座いたしました。
644年には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました
草創期を語る史料は残念ながら善光寺には残っていません。
鎌倉時代になると、頼朝は厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地の寄進を行いました。
(提供:善光寺HP)
 
一光三尊阿弥陀如来は秘仏とされ1692年以来誰も見ていないようである
要は絵に描いた餅状態で「存在しない」と専らの噂が絶えない
日本最古も眉唾物である
EarthChecKingは朝鮮人18番の嘘か武田家が甲斐善光寺に持ち帰ったと踏んでいる
※善光寺は1558年に源氏:武田信玄が創建した山梨の甲斐善光寺もあるが後ほど解説する

本田善光 (本多善光 / ほんだ ぜんこう / よしみつ)
本名
扶余勇 = 扶余善光 = 百済王善光 = 藤原善光 ⇒ 本田善光 
百濟最後の王:扶余義慈 (義慈王) の6男

本田(本多)藤原鎌足 (扶余豊璋) の弟である扶余勇 (百済王善光 / 藤原善光) が名乗った藤原姓
鎌足が天智天皇(中大兄皇子)より賜ったことに始まる

本田
⇒地名を仮名(名字・苗字)とする⇒朝鮮半島における本貫(ほんがん)は発祥を同じくする
  同一父系氏族集団の始祖の発祥地あるいは宗族そのものをあらわす概念
⇒コリア系(Korea/高麗) 
  「田」と「多」は字は異なるが読みが等しく相互に補完される字
  「田」の読みが「た」よりもの方が高リスク
  韓民国・朝鮮民主主義人民共和国(旧:高麗国)の王族が
 「王」に二本の縦線を追加して「田」に変えた例があったと伝わる

※全ての「田」のつく苗字がコリア系ではないとしても衝撃的な話だ
田はキリストに端を発する漢字でもあるはずなので穢された感が否めない

扶余善光としての経歴
百済国王・義慈王によって兄・豊璋と共に百済から日本の宮家に出された。
660年の百済の滅亡後も善光は帰国せず日本に留まり居住地を難波に定められた。
持統朝に入ると百済王の氏姓を与えられると共に、691年までに正広肆(のちの三位相当)
の冠位を受けており、日本において廷臣化し、既存の主要豪族並の待遇を受けていた様子が見られる。なお同年には加封100戸を受け既存分と合わせて封戸200戸を与えられた。
693年正月に正広参の贈位と賻物を受けており、この少し前に没したと思われる。

本田善光 (本多善光) としての経歴
難波で、厄落としとして打ち捨てられた尊仏を発見し、安置したい旨を願い出て勅許を蒙り
尊仏を信濃国伊那郡若麻績里の自宅に移して拝する。
644年善光寺の所在地となる信濃(科野国)水内郡芋井郷に尊仏を奉り
寺院建立の勅を蒙りて伽藍を建立。
伊那郡若麻績里に住んだことから、伊呂波字類抄では若麻績東人(わかをみ の あずまんど)
とも称される。
百済の聖王(聖明王)が献上した天竺の月蓋長者造仏の阿弥陀如来像が
疫病流行のために物部氏によって難波の堀江に捨てられた。
上洛していた本田善光が信濃に戻り家に安置し、その後阿弥陀如来の霊告で
信濃水内郡芋井郷(現在の長野市)に移座し、如来堂を建立して祀ったという。

善光寺2つの寺紋
次に寺紋について興味深い事実をお知らせしたい
各家の家紋と同じようにそれぞれの神社にも紋章が用いられており神紋と称する
我が国における紋章の起源は平安時代に公家社会において用いられた紋章に遡ることができ
父祖伝来の文様が慣用されるようになり一族の文様として定着した
このように日本古来の紋章の習慣を盗用したのが寺紋
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立ち葵と本多葵(丸に立ち葵)
信州善光寺
は二葉葵の立ち葵を使用しているが
甲斐善光寺は二葉葵の本多葵を使用している ※本多葵=本田葵
善光寺の寺紋














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これは甲斐善光寺を建立した武田信玄のルーツが本田家と深い関りを持っていることを示唆している

このように二葉葵の紋章を葵紋という
葵紋といえば天下を制したと思われている徳川家三つ葉葵の原形は二葉葵だ
徳川家の葵紋は二葉葵を図案化したものだが二葉葵の実際の葉の数は2枚である
フタバアオイが正しくミツバアオイと言う植物は存在しない
よって三つ葉葵は架空のものである三つ葉葵
フタバアオイ









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実は徳川家は作られた一族 (雑種) である
一時は藤原姓を名乗りのちに源氏姓に戻したりもしている
松平から徳川に改名したのも平安時代末から鎌倉時代初め頃の上野国の豪族である
清和源氏世良田氏流 : 新田氏の一族だった得川氏の苗字からきている
※得川氏は新田郡得川郷 (現在の群馬県太田市徳川町)を本貫とした一族

しかし徳川家は本来は源義光(新羅三郎義光)を始祖とする源氏のスーパーエリート
武田家
なのだ
なので武田家康が正しい

※これについては本能寺の変・明智光秀の正体が深く絡むのでまた後日詳しくUPする

本多葵を家紋としていた家臣の本多家に三つ葉葵や徳川の家名を名乗ることを許可するも
辞退されたという記録がある
要は将軍はお飾りで大老や老中などに生粋の源氏武士が選出された
6代家宣⇒甲府徳川家
柳沢吉保・新井白石・間部詮房⇒甲府徳川家家臣 ※吉保は甲斐武川衆の出身
保科正之⇒2代秀忠の4男(武田信玄の次女見性院が養育)

このようなことから源氏のサラブレッドである足利家や新田家からは
実は距離を置かれている浮いた存在だった
それが源氏の嫡流から雑種とみなされていた徳川家の隠したい実状である
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神紋としては京都の上賀茂神社と下鴨神社の二葉葵が有名だ
秦氏の神社である京都の上賀茂神社下鴨神社の神紋は二葉葵
中国渡来人の秦氏の2社には日本神道の天照大神は祭神として祀られてはいない
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このようにして二葉葵が裏の藤原家である本田家と中国人賀茂氏という2大渡来勢力の証ということが
家紋・寺紋・神紋から判る
※本多葵・三つ葉葵は藤原鎌足の弟:本田(多)家の紋章

藤原氏家紋本田(多)家家紋
藤原氏の家紋は下がり藤だがこれは扶余豊璋 (藤原鎌足) の家紋


本田家の家紋は本多葵(丸に立ち葵)だがこれは扶余善光 (本田善光) の家紋
善光寺と藤原氏









兄の扶余豊璋 (藤原鎌足) の家紋であるフジ日当たり (陽) を好むが
弟の扶余善光 (本田善光) の家紋であるフタバアオイ日蔭 (陰) を好む

藤も二葉葵も日本固有種であることからしても実に用意周到で用心深い
兄のスポンサーである天智天皇(中大兄皇子)が喜んで許可し与えたことは想像に難くない
※海外のフジはフジ属に属する別の品種

要は兄弟で表裏一体の家紋を考案し使用した
藤原鎌足は政治の表舞台
本田善光は当時の新興宗教である仏教を広め宗教という立場を利用し
兄と兄のスポンサーである天智天皇の政治を裏社会から援護射撃した 
※ちなみに神道は宗教ではない
天智天皇(中大兄皇子)は鎌足の手の平でころがされていたので
鎌足の言うことはなんでも聞いたようだ06efebc522




また中国系移民賀茂氏 (加茂氏・鴨氏・加毛氏・秦氏)と共謀し
神道(神社)勢力を乗っ取る為に暗躍した
 ※鴨が葱をしょってやってくる


葵紋と藤紋は2大渡来人の証
秦氏(中国人)は神社を乗っ取り
藤原氏(朝鮮人)は仏教を布教し
日本の政治を操っていた


信濃から甲斐に移住した朝鮮移民
甲斐善光寺も本田善光ゆかりの寺である
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しかもココには三つ葉葵もある
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甲斐善光寺
甲斐善光寺は1558年、甲斐国国主武田信玄によって山梨郡板垣郷(甲府市善光寺)に創建された。
晴信は弘治3年2月15日に信濃善光寺北西の水内郡・葛山城(長野市)を落とし一帯を勢力下に置くと
善光寺別当の栗田寛久に命じ信濃善光寺本尊の阿弥陀如来像や寺宝を甲斐国甲府へ移転させた
晴信は信濃善光寺本尊の善光寺如来を信濃佐久郡祢津に移すと、三年後の永禄元年に
甲斐へ持ち帰っている
1558年9月15日に善光寺如来は甲斐に到着し甲斐の領民は狂喜したという。
永禄元年の甲斐善光寺創建には信濃善光寺の三七世住職・鏡空上人が本願主になっている。
永禄元年(1558年)に信玄が甲斐国板垣郷(山梨県甲府市善光寺)に甲斐善光寺を創建すると
善光寺の別当である栗田永寿もこれに伴って本尊を奉じて板垣郷へ移住し、大下条(甲斐市大下条)
に在国領を与えられる。

甲斐善光寺には信玄の位牌と一緒に収められている甥:家康の位牌があり
武田信玄が三河から持ち帰ったといわれている於大の方(於禰・おね / 禰々・ねね)
峯薬師像がある
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信濃善光寺の元あった場所や今ある地域は5世紀頃から朝鮮半島国の『百済』や
『高句麗』出身
の人たちが移住した地域としても知られている
そしてこの信濃善光寺から北に向かうと『牟礼:むれ』『古間:ふるま』という地域があり
駅の名前にもなっている
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『牟礼』の牟は昔の古代朝鮮の人の山や村を意味している
『古間』は音読みでコマとなり『巨摩』という名前の地域になった
この人々が山梨県にも住みいたといわれている
高句麗の人たちで高麗人(こまじん)といわれ約3000人ほど住んだと文献に残っている
そしてこの住みついた地を最初は高麗郡と言い後に『巨摩郡:こまぐん』となった
巨摩郡という地名は非常に珍しい地名で山梨県(甲斐国)にしかない
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山梨には北巨摩郡・中巨摩郡・南巨摩郡という地名がある
現在の北杜市・甲斐市・南アルプス市にあたるが中巨摩郡・南巨摩郡は現在も残っている

 


武田氏は本姓は源氏
家系は清和源氏(第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族)の一流で
源義光(新羅三郎義光)を始祖とする源氏の祖
甲斐源氏の宗家である新羅三郎義光(源義光)の原点は朝鮮半島の新羅579fa6d2
善光もよしみつと読み
新羅三郎義光との血縁が伺える

昔は神社の境内に必ず寺院が建てられていた
神仏習合を廃して神道を押し進める廃仏毀釈は明治維新後に発生した正しい一連の動きだ
廃仏運動は非人道的行為だとか酷いという一派がいるが何のことはない
ただの中国・朝鮮人たちの反日運動と仏教利権という損得勘定に過ぎない
善光寺と朝鮮人





第二次世界大戦から中国人朝鮮人に加わり偽ユダヤであるアシュケナジー系ユダヤ人
日本に介入し上記の2大日本乗っ取り国家を支配下に置いた


今の日本が常に3大人種とトラブっているのはこんな過去があり
今も引きずっているからである

八咫烏主導の下に威厳と誇りを取り戻す日本
しかしながら希望もある
裏組織である八咫烏に守られている裏天皇が四国にいる
裏天皇こそが八咫烏中の八咫烏でこの国の宝である
※八咫鏡と草薙の剣で天照大神を呼び出せる世界でたったひとりの人間でもある



中国人や朝鮮人を排斥する計画は裏舞台では着々と進行してきた
これからもっと日本の浄化が進む現状を私たち令和人は目にすることになるだろう
少し前に騒がれた吉本騒動などはそんなプランの氷山の一角にすぎない





カテゴリ: ▣ 鮮害と除鮮=藤原氏・除中・除米
カテゴリ: 皇室乗っ取りグループ

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