明智光秀 天海 武田竹松2



★【要拡散】① 徳川幕府は本当は『武田幕府』だった ※実態は『明智幕府』
の続きです



当初2部構成で完結するつもりだったが予定より1.2部増えそうだ
まーそれだけ奥が深い案件といえるので最後までお付き合いいただきたい

明智軍記
という書物をご存知だろうか?
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江戸時代中期の1688年~1702年頃に書かれたといわれる明智光秀を主人公とする軍記物(著者不明)

江戸時代中期と著者不明だけでも十分に胡散臭いが
1688年~1702年と言えばかの犬公方:5代徳川綱吉(1680年-1709年)の時代ではないか・・・
しかも母親は息子綱吉に従一位を金で買ってもらった桂昌院
大老はあの武田一族(甲斐武川衆出身)で知られた柳沢吉保 ⇐先日恵林寺でお墓と像を確認してきた
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江戸幕府おバカトリオの時代に書かれた書物ということだ
既に犯人の目星がついたようなものだ・・・

国家事業として編修した歴史書であり最も正統と認められた
日本の歴史書の中の歴史書といわれる正史:日本書紀
朝鮮渡来人:藤原不比等が藤原氏に都合のいいように改竄させた偽書であることは
最近は周知の事実である

トップオブトップの正史でさえ改竄された偽書なんだから
氏素性も知れないようなその辺の歴史書なんぞの信憑性は限りなく低い
とゆーかそもそも
そんな書物がナンデ歴史の表舞台に出て起用されたのか
謀反人:明智光秀の汚名を返上し大物扱いにしたかった縁戚筋の誰かの仕業
だろうことは推測に難くない
ソコにこそ謎が隠れている
おバカトリオがチラつく・・・

要は
明智光秀という人物は素性が不明で謎だらけ
なのではなく
素性が知れては困る『
知名度の高い名家の人物』だったということだ

そしてそれがバレルと徳川の権威が根底から覆され失墜する
そんな大物の家系が絡んでいると見るべきだろう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とまーこんな具合に
ここのところずっとこのテーマについて調べていて新たに判ってきたことの多いこと
そんな折つい読みふけってしまった面白い記事があったので紹介したい
より道にはなるが明智光秀を語るうえで外せない内容だと感じたので転載する


織田信長の壷 ~明智光秀と本能寺の謎~
より転載

明智光秀という人は、あまりにも有名だ。
というのも、日本史上知名度ナンバーワンである織田信長という天才を本能寺の変で殺したからだ。
明智光秀という名前は、日本人であれば歴史にあまり興味のない人でも、知っている。
だが、これほどまでに有名な明智光秀の出自については、実はあまり知られていない。

通説に見る明智光秀の出自(明智軍記)
明智光秀が歴史の舞台に出てくるのは1569年4月14日付の賀茂荘中宛の連署状であり
それ以前については闇に包まれている。
そして、歴史以前の明智光秀について、通説ではこのように言われている。

美濃の国人。美濃守護土岐氏の一族。
美濃を支配していた斎藤氏の内乱の際、叔父明智光安が敗北。
居城である明智城を追われ、流浪の身となる。
諸国遍歴の上、越前の朝倉家に仕官する。
そして、朝倉家を頼って落ちてきた足利義秋(のちの室町幕府第15代将軍足利義昭)と
それを支える細川藤孝に協力し、尾張国、美濃国を支配する織田信長を頼るよう提案。
織田家との橋渡しをする。

その後、信長の助力を得て、はれて征夷大将軍となった義昭と、織田信長に両属する形となり
1569年四月十四日付賀茂庄中宛ての書状で、歴史の中にその名を刻み始めることとなる。

その後はよく知られるように、信長の部将として活躍する。
比叡山焼き討ち後、近江坂本を拝領し一城の主となる。
信長と将軍義昭の対立時には信長につき、丹波攻めを任されながら各地を転戦し、丹波攻略後は
中国にて毛利家と対峙している羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の応援に向かう。
その途上で、突如進路を変え中国ではなく京へ向い、本能寺にいる信長を襲い
次いで二条城の織田信忠を討った。
いわゆる本能寺の変である。

その後は天下を握るが、驚異的な速さで中国から戻ってきた羽柴秀吉に山崎の戦いにて敗れ
落ち武者狩りに遭い落命してしまう。

以上がよく知られる明智光秀の生涯だ。
が、実は、その前半部分については、永禄十二年に「明智十兵衛尉」という名前が出てくるまでの
来歴は、はっきりしない。
それまで明智光秀がどこで何をしていたか、はっきりしたことはわかっていないのだ。
実際は、美濃出身なのか、土岐氏の一族なのか、そもそも明智氏だったのかさえわかっていない。
父の名も、何年の生まれなのかもはっきりしない。
まさに、明智光秀という人物は、謎だらけなのだ。

では、なぜ、このような来歴が定説として定着しているか。
それはと明智軍記という書物に書いてあることが、広く流布してしまったからだ。
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誤謬(ごびゅう)充満の悪書「明智軍記」が明智光秀像をゆがめた
「明智軍記」という軍記物がある。歴史家の中では作り話だと理解されている書物だ。
成立は元禄年間(1688年~1704年)とみられている。
少なくとも、天正10年(1582年)に明智光秀が山崎の戦いに敗れ死去してから
100年後に成立した書物である。
作者は不明。主人公はもちろん明智光秀である。

物語としては面白い。が、書いてあることがでたらめばかりなのである。
明智軍記において、光秀は明智城落城後の2年間という短期間で、北は大崎、南は薩摩までを
政治や軍事を研究しながら諸国を巡歴したという(そんな短期間では不可)。
またその際、大崎には伊達氏、広島には毛利元就がいたという(伊達も毛利も、まだそこにいない)。流浪の身になる原因も、斎藤義龍は竜興に攻め殺されており
(義龍と竜興は争っておらず、実際は道三と義龍の争い)、永禄9年義父の織田信長に仕えた
とある。

戦国史研究の権威である、故・高柳光寿氏をして「誤謬充満の悪書」と言わしめるほどだ。
だが、結果的には、この明智軍記に書いてある明智光秀の前半生が通説となってしまっている。
なぜか。
「本能寺の変 431年目の真実」の中で、著者である明智憲三郎氏が述べているが
大きく分けて理由は2つ。

1つめは、作家、司馬遼太郎氏の作品「国盗り物語」の中で、明智光秀の前半生を
明智軍記に依拠しており、それが人口に膾炙したこと。

2つめは、戦国史研究の権威である、故・高柳光寿氏が、「綿考輯録」をベースに
明智光秀の前半生をこのように推定したこと。

この二つを、明智憲三郎氏は指摘している。
詳しくは、氏の著書を読んでいただいたほうが早いが、とても説得力のある説だ。

1つめの、司馬遼太郎氏は、言わずと知れた歴史小説家であり
著書の総発行部数は1億部をこえるという。
が、歴史小説というのは物語に過ぎない。
小説はしょせんフィクション、ねつ造であり、歴史小説といっても事実3割
脚色7割という世界である。
大まかな材料が設定として存在している中で、自由に書き手が物語を作っていけるものだ。
それを、100%事実であると鵜呑みにしてはいけない。
つまり、司馬遼太郎氏の描いた「明智光秀」というキャラクターは、実在の明智光秀とは違う
ということだ。

2つ目の故・高柳光寿氏が明智光秀の前半生をこのように推定したことベースになった
「綿考輯録(細川家記)」は、明智軍記成立から半世紀下った延享年間(1744年~1748年)に
成立した、細川家の家記である。

そしてこの細川家も、明智光秀と親交の深かった細川藤孝(長岡兵部大夫藤孝・幽斎)の家であり
織田、豊臣、徳川時代を生き抜き、江戸時代は肥後熊本藩52万石として存在し
維新後は侯爵家となり、戦後日本国の総理大臣まで輩出した名家だ。

この「綿考輯録」の細川幽斎の項は、先述の「誤謬充満の悪書」である明智軍記に基づいている。
また、明智光秀は逆賊であるため、できるかぎり光秀と細川藤孝の関係を隠ぺいした可能性も
否めない。

したがって
明智光秀という人物が

①美濃守護土岐氏の一族であり
②美濃の出身であり
③越前の朝倉氏に仕えていた

というまるで事実のように広く流布している通説は「誤謬充満の悪書」である明智軍記に
基づいているためかなり根拠が薄い

明智光秀という、日本史の中でも有名なこの人物は、実のところかなり謎だらけなのである。
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明智光秀は美濃土岐氏の一族か
系図、というのは怪しいもので、自分を飾りたてるために、著名な人物や架空の人物を
とってつけてくることがある。
江戸時代には系図屋といってよい職業があったし、現代でも行政書士や業者が
戸籍で遡れないほど古いものについては、根拠不充分ながらも作成して商売しているケースもある。

だから、よほどの名家でない限り、ごまかしの産物である系図をベースに考えるのは
賢い行いとは言えない。
だが、小和田哲夫氏の著作、「明智光秀と本能寺の変」を要約し、まずは父親を考えてみる。

①明智光綱説・・・「明智系図」(系図纂要)、「明智氏一族宮城家相伝系図書」(大日本資料)、「明智軍記」
②明智光隆説・・・「明智系図」(続群書類従)、「明智系図」(鈴木叢書)
③明智光圀説・・・「土岐系図」(続群書類従)

とあり、父親だけでも「光綱」「光隆」「光圀」の三つの説がある。
系図類の伝えることがどれもまちまちで、伝説の域を出ない。

系図も、軍記も、明智光秀が土岐氏の一族であり、愛宕百韻の発句は天下取りを意味している。
という解釈に合うよう後付けでなされた可能性があり、実際、父とされる光綱、光隆、光圀が
何者なのかもはっきりせず、彼らの名前のある良質の書状も発見されていない。
光綱にせよ、光隆にせよ、光圀にせよ、その実在さえはっきりしない。
無論祖父光継や叔父光安も存在を証明できるものはない

明智光秀の系図のとらえ方 土岐明智氏か、こじつけか
小和田哲夫氏は、前掲の「明智光秀と本能寺の変」の中で、明智光秀が当初より明智という
苗字を名乗っていること、明智氏が美濃土岐氏の別れであることを前提に
その出身地を美濃国内に求めている。
ただ、歴史に名前が出てる以前に改名している可能性はあり
「明智光秀が当初から明智を名乗っているから土岐明智氏の別れである」と言うのは首是しかねる。

高柳光寿氏は、”土岐の庶流ではあったろうが、光秀が生まれた当時は文献に出てくるほどの家ではなく、光秀が立身したことによって明智氏の長広く世に知られるに至ったのであり
そのことは同時に光秀は秀吉ほどの微賤ではなかったとしても、とにかく低い身分から
身を起こした”としている。

桑田忠親氏は、明智光秀と土岐氏を関連付けることは、後世のこじつけであるとの懐疑的な
見方を示している。上の系図類は、後世編纂されたものであるという。

現状の資料では、少なくとも土岐氏の一族であると断定はできない。
資料を重視するならば、桑田忠親氏の見解が、研究者として正しい姿勢だろう。

美濃には2つの「明智」という地名があった
美濃には明智という地名が2か所ある。恵那郡と可児郡だ。
谷口研語氏の「明智光秀(歴史新書y)」によれば、

恵那郡の明智は、遠山姓の明智氏が寄っていた。
この家は幕府奉公衆でもあるが、明智は明智でも、遠山姓であり土岐氏ではない。

一方で、可児郡にある明智は、土岐明智氏の版図が最大だった時にも
土岐明智氏が可児郡明智を治めた記録がない、という。(石清水八幡宮領)

つまり、美濃明智と、土岐明智氏のつながりは確認できないことになる。

明智光秀登場の60年前に消えた3つの土岐明智氏
谷口研語氏の「明智光秀(歴史新書y)」によれば、明智光秀が歴史に登場する60年前に
土岐明智氏は、上総介家、兵庫頭家、中務少輔家の3つがあったとされる。

上総介家は文亀2年(1502年)の明智頼明・頼尚以降は名が見えなくなってしまう。
また、その時の所領は土岐郡内の妻木村・笠原村・駄智村半分・細野村半分であったという。

兵庫頭家は玄宣いうものが幕府奉公衆として出仕しており、上総介家と領地争いをしていた。
連歌界の大物であったという。

中務少輔家も幕府に仕えており、外様衆であったとされる。
政宣という人が連歌界でも活躍しており、中務少輔家の通字が「光」だったという。

明智光秀が15代将軍足利義昭の幕府足軽衆として明智の名がみえること、連歌に長じていたこと
名に「光」の字が入っていることを考えると、土岐明智氏の中でも中務少輔家のほうが
明智光秀とつながりがありそうだが、これらの幕臣明智氏は明応の政変(1493年)以来
名が消えてしまい、系図類はつながらない。

これらの土岐明智氏が歴史から見えなくなって
明智十兵衛尉なる人物が
60年後に突如として歴史に現れるのである。

「美濃国住人ときの随分衆也」 ※立入左京亮入道隆佐記(立入宗継記)
そして、明智光秀が美濃のそれなりの出身だという主張に援用される書物として
「立入左京亮入道隆佐記(立入宗継記)」というものがある。

著者である立入宗継は禁裏御蔵織という身分にある公家であり、生まれは大永八年(1528年)。
まさに、織田信長と同世代の人であり、朝廷からの使者として、信長と接触している。

その記述の中に、明智光秀を「美濃国住人ときの随分衆也というのがある。
純粋に読めば、美濃の土岐氏の相当な身分のものである。と解釈するのが妥当であろう。
現に、小和田哲夫氏は、前掲の「明智光秀と本能寺の変」の中でこのような見解を示し
明智光秀は美濃の土岐氏の相当な身分であったという見方をしている。

明智光秀の遺像(肖像画)を考える
明智光秀の年齢についてはよくわかっておらず、根拠が乏しいながらも

①享禄元年(1528年)生まれ(享年55歳)説 通説 明智軍記
②永正十二年(1515年)生まれ(享年67歳)説 当代記
③不明(①・②以外1517年)
 ※天海の生年ははっきりしていないが100歳以上の長命であったと言われる。

の3つがある。
そして、同僚の織田信長家臣団の年齢層を鑑みると、45歳から55歳の間であれば、違和感はない。
そして、最後に考えたいのは肖像画だ。

当時の画像は、像主の生前に作らる寿像は少なく、死亡の直後か、この信長像のように一回忌
または三回忌や七回忌などに礼拝供養のために作られた遺像(遺影)が多い。
それゆえ、ほとんどの画像の像主は、晩年の要望で描かれることになる。
引用元:藤本正行著「本能寺の変 ~信長の油断・光秀の殺意~」

という一文があり、明智光秀の年齢に疑問を持つに至った。
歴史の教科書に必ず載っている織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、なるほど晩年の容貌だ。
しかし、明智光秀はどうか。
明智光秀 天海 武田竹松




これが、明智光秀の肖像画として唯一伝わる、岸和田にある本徳寺所蔵のものだ。
礼拝供養のために作られた遺像(遺影)と考えられよう。
これが、ほかの人物ではなく、明智光秀の肖像画だとすると
その享年とされる55歳に見えるだろうか

現在の、明智光秀の年齢は、故・高柳光寿氏をして「誤謬充満の悪書」と言わしめた
「明智軍記」に順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元

という辞世があり、55年の夢と言っているのだから、55歳で死んだはずだ
という理由で、当時は数え年だから、天正十年(1582年)から54を引き、生年を享禄元年(1528年)と推定しているに過ぎない。

55歳には見えず、もっと若く見える。ましてや、当代記のいう67歳に見えるだろうか。
ただし、この遺像はあくまで伝・明智光秀像であり、本当は明智光秀でもなんでもない
全然別の人物を描いたものかもしれない。(源頼朝像や足利尊氏像のように)
(提供:織田信長の壷)

要は明智軍記に書かれている内容は全くあてにならないということだ
生年 不明
没年 不明 ⇒ 本能寺の変と山崎の戦は秀吉・家康との悪計
士族 不明 ⇒ 身分は相当高い者
父  不明
母  不明
※ここまでくると本名も不明というしかない

「明智光秀」という名前が本名である可能性は限りなく低い

徳川家康の側近 : 楽院天海 = 明
坊(明寺金剛院南坊)天海・南楽院
徳川家康の側近として江戸時代初期の朝廷・宗教対策において強い影響力を持っていた
天台宗の高僧:南光坊天海は四神相応にあたる土地として江戸を定め
天台密教僧の天海は各宗派で23人しかいない大師号「慈眼大師」を持っていた
天海の名前は同じ密教僧の空海に自らをなぞらえ空海の生まれ変わりと称していたとも伝わる
空=天
天海は長く徳川家に席を置いていたが
天下人の側近にしては氏素性やそれまでの半生が何かと不鮮明な点が多い

天海と光秀の肖像画
日本で唯一明智光秀の肖像画を所蔵していることで有名な本徳寺を開基した南国梵桂は
明智光秀の長男・明智光慶と言われている
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「放下般舟三昧去」「輝雲道琇禅定門」
光秀の肖像画に書かれている内容を見てみよう
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肖像画には「放下般舟三昧去」
つまり
「仏門に入り修行三昧をしていたが去っていった」
との一文が記されている
光秀は生き延びており僧になった後寺を出たという意味に読み取れる
放下般舟三昧去 明智光秀 天海








「輝」「琇」
本徳寺(鳳凰山)の位牌の戒名は「鳳岳院殿雲道大禅定門」
肖像画にも「雲道禅定門肖像賛」と書いてあるので明智光秀本人の肖像画であるはずだが
戒名で書かれるにはあまりにも対象者が若すぎて辻褄があわない
この戒名の輝琇の字のなかに光秀という名前が隠れていると言われているが
他の戒名には「輝」「琇」は「光」「秀」となっており不可解かつ意味深である
※光秀の他の戒名 ⇒ 岳院宗禅定門 前日洲条鉄光秀居士 長存寺殿窓玄大禅定門戒名の構成





明智光秀の肖像画が若いころに描かれたものであっても他人であっても
名を変えて徳川幕府に仕えた天海の肖像画は本人のものと思われる
明智光秀 天海 武田竹松明智光秀 天海 武田竹松



謀反人:明智光秀の名を捨て比叡山出家後 第二の人生を生きた天海

京都宇治の専修院と神明神社には山崎の戦いの後に明智光秀を匿った伝承が残されている。
『和泉伝承誌』によると山崎の戦いの後に明智光秀が京の妙心寺に姿を現し
その後光秀は和泉に向かったと書かれている。
本徳寺には一時 明智光秀の長男・明智光慶が明智光秀を匿っていたという伝承がある。

鳥羽の俗謡
鳥羽(貝塚市鳥羽)にあった「大日庵」に、光秀が亡命してきて隠棲していたということで
鳥羽の俗謡に
「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」
と伝えられている。

その他
・岐阜県山県市中洞には、光秀が落ち延び「荒深小五郎」と改名して
 関ヶ原の戦い頃まで生き延びたという伝承がある。
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・日光には天海が名づけた明智平と呼ばれる場所がある。
光秀没後の1582年以後に比叡山に光秀の名で寄進された石碑がある
・光秀の家老・斎藤利三の娘・お福(=春日局)が家光の乳母に決定し
 天海に会ったとき「お久しぶりです」と声をかけた。
光秀の孫(外孫)織田昌澄は、大坂の役で豊臣方として戦ったが斬首されず助命されている。
・東叡山開山慈眼大師縁起によると、家康と天海が初めて対面したとき
 旧知の間柄のように人を遠ざけて親しく語り合ったと伝えられている。
 ※家康は初対面の人物と人払いしてまで談合することなどまったく前例がなかった
・比叡山・叡山文庫に、出家前の俗名が光秀といった僧の記録がある。
(提供:OH江戸ライフ:ウィキペディア)
参考:国立国会図書館デジタルコレクション:大僧正天海

関ケ原の合戦絵図には僧侶であるのにも関わらず軍師として参戦していた
南光坊天海が描かれている
※クリックすると拡大しますSekigaharascreen
sekigaharasiryoukan-tenkai-dai
天海の遺品のなかには天海の所用と伝えられる甲冑(滋賀県求法寺所蔵)
と鉄砲(川越喜多院所蔵)が現存する
また大坂城にある天海所用の鎧麒麟前立付兜という兜がある天海 麒麟前立付兜
2020年の麒麟がくるの麒麟はこの麒麟前立付兜からとっているのではないだろうか


天海という人物は素性が不明で謎だらけ
なのではなく
素性が知れては困る『知名度の高い名家の人物』だったということだ

白羽の矢が立った織田信長
源氏の宿敵:平氏であり皇室出身者で神官職の織田信長に白羽の矢が立った
当時の織田家の家臣は林・佐久間を除いて全てが源氏という厳重な信長包囲網が敷かれていた
信長は幼少期から大変利発で性格も温厚であった
※うつけを装っていたのは師匠であり参謀の 沢彦宗恩 による軍略の一環であったが
 実はこの人物と光秀との間に深い関係が眠っていたのである⇒次回説明予定
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そんな優れた平氏の信長には謀略に長け忍耐強く狡猾な側近が必要である
それが土岐源氏:明智光秀と名乗る男だった
源氏:足利義昭を担ぎ出させ将軍職に就けるために信長を利用し用心棒にしたのである
明智光秀 天海 武田竹松






光秀の母:お牧の方を調べたところ若狭武田氏の女性であるというところまではわかった
さあ父親は誰だろう

EarthChecKingはこんな場所にも行ってみたので次の機会に紹介する
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本当の前立ては桔梗でも麒麟でもなく〇〇〇であるべきだろう
次回は〇〇〇を紹介する

ちなみに
武田氏は全国ネットを持っている巨大組織で
河内源氏からはじまり
甲斐武田氏・安芸武田氏・若狭武田氏・京都武田氏
上総の武田氏・因幡の武田氏・常陸の武田氏・相模国の武田氏・土佐国の武田氏
と他をしのぐ膨大な力を持っていた

つづく

※下記の記事にはヒントが隠されている (*・ω・)ノ



カテゴリ: ▣ 鮮害・除中・除米・日本乗っ取り集団
カテゴリ: 日本史上の歴史人物

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