CPq6KXpUwAA9MUS




















いやー見つけちゃいました武井神社(たけい じんじゃ)
武井・苗字・由来でも書きましたが
20160623-05249463300200







武井という名字は清和源氏所縁であり諏訪氏系である
鎧をまとった闘いに挑む兵士
竹井と同じである

以外はよくわかりませんでしたが
今回は武井神社もみつかり少し前に進めそうな予感です
 
正式名称:武井神社
御祭神:健御名方神(タケミナカタノカミ)魂 /相殿:八坂刀売神、健御名方富命彦神別神
創建年代:不詳
社格等:旧村社
ご利益:武運長久・勝運、家内安全、諸願成就
 


【由緒】
創建については不詳です。ネット上には持統天皇5年(692)ではないかという口伝がある
という情報もありますが、これは『日本書紀』の持統天皇5年8月
使者を遣わして龍田風神(龍田大社)・信濃須波(諏訪大社)
水内神(水内大社=健御名方富命彦神別神社)を祭らしめたという記事に基づき
武井神社も水内大社と一体をなすという考え方によるものだろうと思います。
4a5a36c6







cc694f8f






























上古は武井明神または諏訪明神と称していました。
武井の名の由来はよくわかりませんが諏訪大社下社の大祝・金刺氏の一族
本家滅亡後に祭祀を継承した武居祝との指摘する説もあるようです。
文化4年(1807)11月、神道管領・吉田家の允可により現在の社号に改められました。
当社と妻科神社・湯福神社・健御名方富命彦神別社(水内大社・城山県社)は
七年ごとの寅年と申年に四社交替で御柱祭を行います。 dffc56d0

















※上記の武井神社への改称については少々疑問があります。
諏訪明神から武井神社へ改めたというのはわかりますが
江戸時代に吉田家の許可で武井明神から武井神社へというのはありでしょうか?
同じ文化4年の7月に湯福神社がやはり吉田家の許可を受けて諏訪明神から改称していること
それに先立つ宝暦14年(1764)に妻科神社も諏訪大明神から改称していることから考えて
上古は武井明神と称していたが江戸時代には諏訪明神と呼ばれるようになっていたので
許可を得て武井神社に戻した、ということではないかと思うのですが、いかがなものでしょう。
 


善光寺七社の一社で、妻科神社・湯福神社とともに善光寺三鎮守(善光寺三社)と言われる。
その創立は定かではなく、持統天皇5年(692年)頃ではないかという口伝がある。
社名のいわれは信濃宝鑑に諏訪大社の領地を武井(武居)といい同じ御祭神を奉祀することから
という説と神官 武居祝(武井祝=たけいほうり)一族が奉齋したことからという説がある。
上古は、武井明神・諏訪明神と呼ばれていた。
現社名となったのは、文化4年(1807年)。
当社が鎮座する場所は、古い地図に、字(あざ)武井、南側の道路を武井小路と記されている。
弘化4年(1847年)の大震災で社殿が焼失し、13年後に建て替えられたものが現在の社殿である。
諏訪大社の御柱祭と同じ寅年申年武井神社・妻科神社・湯福神社善光寺三社
長野市長野の健御名方富命彦神別神社を加えた4社が交替で勤行する御柱祭がある。
7dfe2fe1



















両部鳥居(りょうぶとりい)は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり
その笠木の上に屋根がある鳥居。
名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残。
四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居などの別名がある。
派生したものとしては伊香式鳥居がある。

文化財として、御柱祭行列図大絵馬が市指定有形文化財。雷電の力石がある。
先の健御名方富命彦神別神社の他、長野市の美和神社などを兼務神社としている。

善光寺七社
美和神社
湯福神社 - 善光寺三鎮守(善光寺三社)
武井神社 - 善光寺三鎮守(善光寺三社)
妻科神社 - 善光寺三鎮守(善光寺三社)
加茂神社
木留神社
柳原神社(笹焼神社)

□神官 武居祝(武井祝=たけいほうり)一族が判る家系図

46475cd2-s











01224

























harumiya01_l300200                                








                                           
ダイエット
ダイエット