武田信玄は朝鮮人系の嵯峨天皇がつくった武家集団のボス








【至急】塩を止められて困っています【信玄】を書いた時に気が付いたことなんですが
武田信玄のルーツは山梨県じゃなく茨城県だったんです
しかもルーツの清和源氏は渡来人である朝鮮人系の嵯峨天皇がつくった武家集団
のひとつだったのです
何のための武家集団かというと何とその目的が

日本の侵略・占拠・占領・征服
要は
乗っ取り


実に(・_・)目がテンな話でした
我が故郷のヒーローが

朝鮮人

しかも

日本乗っ取り集団の棟梁

だったなんて・・・
ってゆーかそもそも本人の肖像画と甲府駅前の信玄像って全く別人じゃないか ! (`・д・´)
※タイトル画像も近年発表された信玄の肖像画 ⇒ え゛こんなおっちゃんやったの? (((( ;゚д゚)))
武田信玄武田信玄 徳川家康

































不細工を男前にし過ぎ
いやーこれじゃー別人ダロ
徳川家康は武田信玄の子供
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嵯峨天皇がつくった朝鮮人系の武家集団 : 源氏朝鮮人 藤原不比等









※源氏を放置すると日本が朝鮮人に乗っ取られると憂いた桓武天皇は
平氏という武家集団を源氏(朝鮮人)から日本を守るために組織した

嵯峨天皇は日本の第52代天皇(在位809年-823年)。
嵯峨天皇

桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。
※平氏をつくった桓武天皇(父親:光仁天皇 母親:高野新笠・父は百済系渡来人の家系)
の父光仁天皇から藤原氏の血が入った

清和天皇は、平安時代前期の第56代天皇。(在位858年-876年)。
清和天皇


武門の棟梁となる清和源氏の祖。文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣・藤原良房の娘、女御・明子。

あの有名な徳川家康や明智光秀・源頼朝・足利尊氏・今川義元も清和源氏だったのです

朝鮮人  源氏 日本乗っ取り集団












































武田信玄については私は当然ながら山梨ケンミンだと信じていましたし
韮崎がルーツだって思っていました
山梨には甲府市武田という地名もあります
ところが茨城県ひたちなか市武田という住所地に武田氏(うじ)館跡という建物がありました
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名将信玄を出した甲斐武田氏発祥の地
という看板が立っています
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武田氏館跡と検索すれば躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)と出てきますから
茨城の方は認知度が低いのかもしれません
ということで
戦国一の武将 甲斐の虎と言われた武田信玄のルーツを探ってみたいと思います
がしかし本当に戦国一だったのでしょうか・・・

甲斐源氏の宗家である新羅三郎義光(源義光)の原点は
朝鮮半島の新羅
新羅(しらぎ/しんら、シルラ)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。
当初は「斯蘆」(しろ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。
朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南
をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。
内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。
朝鮮の歴史区分では、新羅、高句麗、百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を三国時代
新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代(668年-900年)を統一新羅時代
新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を後三国時代という。
(提供:ウィキペディア)
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武田氏は本姓は源氏(朝鮮人家系)
家系は清和源氏(第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族)の一流。
河内源氏2代当主源頼義の三男である源義光(新羅三郎義光)を始祖とする甲斐源氏の宗家である。

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河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化し
武田晴信信玄)の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗するが
勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけがわずかに残った。
家宝御旗後冷泉天皇から下賜された日章旗)と
楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられた)。
甲斐武田氏の主な分流としては安芸(広島)武田氏京都武田氏
その他に上総(千葉)因幡(鳥取)常盤(茨城)がある。

簡略化してみるとこんな感じです
では更に詳しくみてみましょう
yoriyoshi_samurai源義光(新羅三郎義光)の父親である源頼義
河内源氏2代当主で源頼朝に崇拝された源氏の名将といわれている。鎮守府将軍などを歴任し武勇に優れた弓の達人であり、父頼信とともに平忠常の乱を平定。
平直方は娘を武勇の誉れ高い頼義に嫁がせた。
鎮守府将軍、陸奥守として安倍氏を討つ。
その後、鎌倉に河内源氏の氏神である
石清水八幡宮(鶴岡若宮1063年)を勧請した。
頼朝はこの頼義を特に
崇拝すべき源氏の祖先としていた。

この
源頼義の息子たちは長男が源義家
次男が源義綱、三男が
源義光といいます
この3人の息子たちの別名は下記の通りです


源義家⇒八幡太郎義家 八幡は京都の岩清水八幡宮
源義綱賀茂二郎義綱 賀茂は京都の上賀茂神社
源義光新羅三郎義光 新羅滋賀県大津の三井寺(園城寺)北院にある新羅善神堂

源義光(新羅三郎義光)は長男を常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に土着させ常陸進出の拠点とした。
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※新羅三郎義光が豊原時秋に笙の秘曲「広陵散」を伝授する

三男の源義清(武田冠者)常陸国吉田郡武田郷茨城県ひたちなか市武田に配し
勢力の扶植をはかった。ここが甲斐武田発祥の地である。
源(武田)義清は刑部三郎と称し武田郷の地名をとって初めて武田氏を名乗り武田冠者と呼ばれた。 
この義清甲斐武田氏の始祖となったのである。
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左が武田義清 右が武田清光

武田系図によると義清は上野介源兼宗の女を妻とし清光をもうけてい る。
十二世紀初めの武田郷周辺の地は在地豪族の間で互いに勢力を張り合っていたが
勢力拡張をあせる
義清清光父子にゆき過ぎの行為があった。
そのため常陸大掾の族吉田清幹(きよもと)らに疎外され清光濫行として告発された。
その結果、
義清清光父子は告発された直後に甲斐国市河庄山梨県市川大門町配流となった。
義清の曾祖父頼信、祖父頼義義光と三代にわたって甲斐守に任ぜられ
清和源氏と甲斐とは密接な関係にあった父祖ゆかりの地に土着し
義清清光父子
新天地を開いて甲斐源氏発展の基盤を築いた
名将武田信玄義清から十八代目にあたる。
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武田の赤備えのルーツは朝鮮半島の習慣
中国や韓国で尊ばれる赤色
元々中国や韓国では赤色は神聖を表し悪鬼を追い出す神通力を持つと信じて来ました
赤色は皇帝を意味し宮殿と玉座は赤く塗り皇帝の衣装も赤色でした
赤い服を着ることができる階層は貴族以上の身分でなければならなかったし
平民が赤色で着飾ったあとは命が支えにくかったと言います

武田の赤い具足赤備え
赤備えは戦国時代から江戸時代にかけて行われた軍団編成の一種。
構成員が使用する甲冑や旗指物などの武具を、赤や朱を主体とした色彩で整えた編成を指す。
戦国時代では赤以外にも黒色・黄色等の色で統一された色備えがあったが、当時の赤色は
高級品である辰砂で出されており、戦場でも特に目立つため、赤備えは特に武勇に秀でた武将
率いた精鋭部隊であることが多く、後世に武勇の誉れの象徴として語り継がれた。
赤備えを最初に率いた武将は甲斐武田氏に仕えた飯富虎昌とされ、以後赤備えは専ら
甲斐武田軍団の代名詞とされる。(提供:ウィキペディア)
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朝鮮人の藤原鎌足の子である藤原不比等が
朝廷に身内を嫁がせるようになってから
天皇家には朝鮮人の血が色濃く伝わる
ようになりました
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天皇家だけでなく国民比率を見ても純粋な日本人の血統を持つものは4割と言われています
ですから朝鮮人の棟梁であった武田家の家紋(武田菱)は天皇家にも大変関係が深いのです武田菱C1M4pM8UUAA3vCT
















1494450b武田信玄






























 
武田氏(うじ)館跡へのアクセスはコチラ5b926ea5
カテゴリ: ▣ 鮮害・除中・除米・日本乗っ取り集団
カテゴリ: 日本史上の歴史人物


                                           
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