
実際どのような人物だったのでしょう
気になって調べてみました
文献にはこうありました
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武田 信長(たけだ のぶなが - 文明9年(1477年)?)
は室町時代中期の武将。甲斐における国人領主。
甲斐守護第13代当主 武田信満の次男。
右馬助と称し上総武田氏の祖にあたる。
応永二十三年(1416)の上杉禅秀の乱の際父信満と共に禅秀に与同する。
信満は翌年自殺。長男の信重は高野山に入りその遺領は、同族の逸見有直の領するところとなる。
信長は逸見一族を除くために挙兵し
数年後これを敗退させた。
応永三十三年(1426)足利持氏が甲斐に侵入。
信長はこれに降り将軍足利義教や古河公方足利成氏に仕え結城合戦に武功を立てた。
康正二年(1456)、古河公方方として上総国に入国。真里谷城(現・木更津市真里谷字真地)を築城し上総で没した。
子孫は真里谷氏と称した。
信満は翌年自殺。長男の信重は高野山に入りその遺領は、同族の逸見有直の領するところとなる。
信長は逸見一族を除くために挙兵し
数年後これを敗退させた。
応永三十三年(1426)足利持氏が甲斐に侵入。
信長はこれに降り将軍足利義教や古河公方足利成氏に仕え結城合戦に武功を立てた。
康正二年(1456)、古河公方方として上総国に入国。真里谷城(現・木更津市真里谷字真地)を築城し上総で没した。
子孫は真里谷氏と称した。
上総国ですから今の千葉県の武田氏の祖なんですね
私達は信長というと織田信長を連想します
長は武運長久とかに使われるように縁起がいいので武士の名前には大変よく見られます
武田家では信が通字として使われていたことと使用頻度の高い長を重ねた名前だと言えます
というぐらい自然な名前とも言えます
鎌倉時代には分家を興した一条信長という人がいて
この人が一条を名乗る以前は武田信長でした
武田家も織田家も信が通字として見られるため
織田信長の親類縁者である織田信光・信安・信興なども
武田に同名の人を見つけることが出来ます
現代には織田信成さんがいますが
武田家にも武田信成(甲斐武田氏の第11代当主)がいたりします
※オマケ