織田信長 : 殺害の真相









本能寺の変で殺された織田信長(平氏)は実は周到に計画された暗殺だった

本能寺の変の首謀者たち
正親町天皇 源氏の足利尊氏以降の朝鮮系天皇で父親は後奈良天皇 母親は藤原栄子 
        藤原姓は百済(朝鮮):藤原鎌足の子孫
足利義昭(源氏) ※室町幕府第15代(最後)の将軍
近衛前久(藤原北家嫡流) ※藤原北家は藤原不比等の直系 関白・太政大臣
明智光秀(源氏) ※後の天海僧正
徳川家康(源氏)
豊臣秀吉(源氏)
武田信玄(源氏)
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※この7人は藤原氏を祖先に持つ者や姻戚関係の天皇や藤原氏の傘下である源氏の頭領です

皇室・将軍家との縁が深い明智光武田信玄を核に皇室・将軍家との縁が深い明智光秀と天下を狙う豊臣秀吉・徳川家康らが
実権を握りたい正親町天皇と信長に恨みをもつ足利義昭と権謀術数をめぐらし
千利休に本能寺で茶会を催させ信長をおびき出した・・・といった構図です
中国大返しなどは秀吉十八番のフィクションです
この他にも石山本願寺・比叡山・上杉など数多くの源氏縁故の者が協力しました

信長は皇族 ※物部氏の流れをくむ平氏
織田信長は皇族であった尾張氏の末裔
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尾張氏(おわりうじ)は、「尾張」を氏の名とする氏族。
『日本書紀』巻第二の一書(第六第八)によると天火明命(あめのほあかりのみこと)を祖神とし
天忍人命から始まるとされる。本貫地は諸説あり不明。
美濃・飛騨などに居住の後、乎止与命のときに尾張国造となる。
倭武の時代には、熱田の南に拠点を移し、その後裔は熱田神宮大宮司を代々務めた。
また同族に住吉大社(大阪市住吉区)の社家の津守氏、そして籠神社(京都府宮津市)の社家海部氏(国宝『海部氏系図』による)がある。(提供:ウィキペディア)

信長が殺された理由
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皇族の子孫の尾張氏であった信長は足利尊氏により正統な日本人の後醍醐天皇から
朝鮮系天皇に入れ替わった事態を知っていた為
中国:秦氏・朝鮮:藤原氏により歴史から葬られた物部氏末裔の平氏であった為
中国:秦氏・朝鮮:藤原氏による日本乗っ取り計画の邪魔者だった為
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信長の天皇や将軍に対する不敬は正統な日本人でなかったが故に見下していたのである

明治維新で天皇が入れ替わった
そんな明治天皇が信長の為の神社を創建していた事はあまり知られていない

建勲神社
(たけいさおじんじゃ)は、京都市北区の船岡山の中腹にある神社である。
織田信長を主祭神とし、子の織田信忠を配祀する。旧社格は別格官幣社。
正しくは「たけいさおじんじゃ」と読むが、一般には「けんくんじんじゃ」と呼ばれ
「建勲(けんくん)さん」と通称される。
旧称健織田社(たけしおりたのやしろ)、建勲社(たけいさおしゃ)。
江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。
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明治2年11月8日(1869年12月10日)、「日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一をめざして
日本を一つにまとめた信長のおかげ」
として、戦国時代を天下統一、朝儀復興などを進めた
織田信長を賛えるための健織田社の創建が明治天皇により決定された。
翌明治3年10月17日(1870年11月10日)、信長の子孫で天童藩知事・織田信敏の邸内(東京)
と織田家旧領地の山形県天童市に建勲社が造営された。
明治8年(1875年)4月24日に別格官幣社に列格した。
現在地の船岡山は平安京の四神相応の玄武に位置し豊臣秀吉によって信長の廟所と定められた地。
その船岡山に神社を移すことになり、明治13年(1880年)9月、社殿が竣工して東京より遷座した。
なお、この時は現在表参道を少し登ったところにある「大平和敬神」の石碑が建っている場所に
本殿があった。明治14年(1881年)に織田信忠が合祀された。
明治43年(1910年)に社殿が現在の山頂部分に移建された。
祭神・織田信長の業績にちなみ、国家安泰・難局突破・大願成就の神社とされる。
高台にある境内からは特に大文字山・比叡山方面の眺望が良い。 
(提供:ウィキペディア)

中国人の秦氏系 : 徳川家
京都 下鴨神社 二葉葵・社紋と
徳川家 三ッ葉葵・家紋
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徳川家の三つ葉葵の原形は、二葉葵といわれている。
この二葉葵を紋章とするのは、だいたいが加茂明神信仰から 出ている。
二葉葵は京都の賀茂神社(秦氏系)の神事に用いられてきやもので、別名カモアオイともいわれる。
そして、 加茂祭には必ずこの二葉葵を恒例の神事に用いたことから、この祭を葵祭という。 
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『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・ 島田氏らが戦国時代前期ころから
用いていたとある。
松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子
であったことがある。
このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。
※加茂氏(賀茂氏)は中国人の秦氏と同族で朝鮮人の藤原氏と結託し日本を乗っ取っていった
鴨葱とは日本が乗っ取られていく様を言った言葉である
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永禄九年(1566)家康は朝廷に願い出て、松平から徳川に復姓した。
葵紋は、家康が征夷大将軍となってから権威ある紋として、一般の使用を禁止し
一門親藩だけに使用を許した。

ということは徳川家は中国人の秦氏系であり物部一族の子孫である
尾張氏末裔の織田信長とは敵対関係にある

織田信長とお市の方の間に生まれた娘 ※茶々
※お市の方は信長の妹ではない
茶々は秀吉の第二婦人となり秀頼の母となる ※淀殿(平氏) 秀頼(平氏)
※秀吉の妻の北政所(ねね:源氏)は徳川家康(源氏)につき小早川秀秋を寝返らせ
関ヶ原の戦いでの勝因をつくった
大坂夏の陣で淀殿・秀頼は自害し秀頼の子の国松は処刑され娘の天秀尼は千姫の働きかけで
仏門に入ることを条件に助命された

源氏の血統であるお市の方の2人の娘である初と江のその後
は宇多源氏の流れを汲む近江源氏である京極高次の正室として京極家に入れられた
は徳川2代将軍となる徳川秀忠の妻(御台所)となり自らの子孫を後代に残せなかった
姉2人とは対照的に多くの子をもうけた
江(平氏)の子を跡継ぎにしない為に家康(源氏)が春日局(明智家縁故:源氏の娘)
とつくった子供が3代将軍の家光
である
江の実の子供である次男の徳川忠長は駿府藩主となるも寛永9年(1632年)に身分を剥奪され
所領と城・屋敷を没収された(峰巌院)
敵である源氏の徳川家に嫁がされた江は春日局により暗殺された
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また死んだとされている源氏:明智光秀天海僧正と名を替え日光東照宮の建造をまかされた。
天海(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。
大僧正。諡号は慈眼大師。徳川家康の側近として江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。
※明智光秀が仕えた斎藤道三も源氏である
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栃木県の明智平は明智光秀の名前にちなんだ名前ではないだろうか
足利将軍のご落胤説もあり北朝系天皇に肩入れしたのも頷ける話だ
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信長が浅井長政の頭蓋骨を盃にした話は信長が下戸であったことから
大分盛った話か汚名を着せる為の捏造話だとされている
何せ勝った者の歴史がヒストリー(His story)だから何でもありということだ
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信長の影武者と妻は本能寺にて自害しましたが
影武者は船にて助けられ
九州に逃れたのち失意の内に没したのです

カテゴリ: 日本・日本史・侍・大和魂・大和撫子
カテゴリ: 日本史上の歴史人物
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