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本能寺の変で殺された織田信長は実は周到に計画された暗殺だった
主犯正親町(おおぎまち)天皇 ※足利尊氏以降の北朝天皇
実行犯明智光秀 ※後の天海僧正
協力者徳川家康・豊臣秀吉  (提供:佐藤 昭信)
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信長が殺された理由
織田信長は皇族であった尾張氏の末裔
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尾張氏(おわりうじ)は、「尾張」を氏の名とする氏族。
『日本書紀』巻第二の一書(第六第八)によると天火明命(あめのほあかりのみこと)を祖神とし
天忍人命から始まるとされる。本貫地は諸説あり不明。
美濃・飛騨などに居住の後、乎止与命のときに尾張国造となる。
倭武の時代には、熱田の南に拠点を移し、その後裔は熱田神宮大宮司を代々務めた。
また同族に住吉大社(大阪市住吉区)の社家の津守氏、そして籠神社(京都府宮津市)の社家海部氏(国宝『海部氏系図』による)がある。(提供:ウィキペディア)
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皇族の子孫の尾張氏であった信長は足利尊氏により
南朝の後醍醐天皇から北朝天皇に入れ替わった事態を憂い
本来の南朝系天皇に戻す志があったが北朝系の正親町天皇に計画を阻まれる
正親町天皇が公家と精通していた明智に信長の暗殺を持ちかけ秀吉・家康と暗約した
本能寺の変の前日に利休が茶会を開いていることから利休も4人に利用されたか
何かしら暗殺に絡んでいたのかもしれない

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信長の天皇に対する蛮行は偽の天皇だったが故に見下していたのだろう


明治維新で天皇が入れ替わったという話は信憑性の高い話で有名である
そんな明治天皇が信長の為の神社を創建していた事はあまり知られていない

建勲神社(たけいさおじんじゃ)は、京都市北区の船岡山の中腹にある神社である。
織田信長を主祭神とし、子の織田信忠を配祀する。旧社格は別格官幣社。
正しくは「たけいさおじんじゃ」と読むが、一般には「けんくんじんじゃ」と呼ばれ
「建勲(けんくん)さん」と通称される。
旧称健織田社(たけしおりたのやしろ)、建勲社(たけいさおしゃ)。
江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。
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明治2年11月8日(1869年12月10日)、「日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一をめざして
日本を一つにまとめた信長のおかげ」として、戦国時代を天下統一、朝儀復興などを進めた
織田信長を賛えるための健織田社(たけしおりたのやしろ)の創建が明治天皇により決定された。
翌明治3年10月17日(1870年11月10日)、信長の子孫で天童藩知事・織田信敏の邸内(東京)
と織田家旧領地の山形県天童市に建勲社が造営された。
明治8年(1875年)4月24日に別格官幣社に列格した。
現在地の船岡山は平安京の四神相応の玄武に位置し豊臣秀吉によって信長の廟所と定められた地。
その船岡山に神社を移すことになり、明治13年(1880年)9月、社殿が竣工して東京より遷座した。
なお、この時は現在表参道を少し登ったところにある「大平和敬神」の石碑が建っている場所に
本殿があった。明治14年(1881年)に織田信忠が合祀された。
明治43年(1910年)に社殿が現在の山頂部分に移建された。
祭神・織田信長の業績にちなみ、国家安泰・難局突破・大願成就の神社とされる。
高台にある境内からは特に大文字山・比叡山方面の眺望が良い。 (提供:ウィキペディア)

この建勲神社の近くにある小さな祠(ほこら)の下に信長の首が眠っているとされている
※現在は立ち入り禁止


京都 下鴨神社 二葉葵・社紋と徳川家 三ッ葉葵・家紋
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徳川家の三つ葉葵の原形は、二葉葵といわれている。
この二葉葵を紋章とするのは、だいたいが加茂明神信仰から 出ている。
二葉葵は京都の賀茂神社(秦氏系)の神事に用いられてきやもので、別名カモアオイともいわれる。
そして、 加茂祭には必ずこの二葉葵を恒例の神事に用いたことから、この祭を葵祭という。 
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『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・ 島田氏らが戦国時代前期ころから
用いていたとある。
松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子
であったことがある。
このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。
永禄九年(1566)、家康は朝廷に願い出て、松平から徳川に復姓した。
葵紋は、家康が征夷大将軍となってから権威ある紋として、一般の使用を禁止し
一門親藩だけに使用を許した。

ということは徳川家秦氏系であり物部一族の子孫である尾張氏末裔の織田信長とは敵対関係にある
歴史とは過去の因縁も脈々と受け継がれつつ繰り返されるものであることに驚きを隠せない。

また死んだとされている明智光秀天海僧正と名を替え日光東照宮の建造をまかされた。
天海(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。
大僧正。諡号は慈眼大師。徳川家康の側近として江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。
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栃木県の明智平は明智光秀の名前にちなんだ名前ではないだろうか
足利将軍のご落胤説もあり北朝系天皇に肩入れしたのも頷ける話だ
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信長が浅井長政の頭蓋骨を盃にした話は信長が下戸であったことから
大分盛った話だとされている
何せ勝った者の歴史がヒストリー(His story)だから何でもありということだ
(寄稿:只埜セツ子)
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