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大日本帝国海軍航空隊
は大日本帝国海軍の航空部隊である。
日本軍は1910年(明治43年)に初めて航空機を入手して、第一次世界大戦中に航空戦に
大きな関心を寄せて研究開発を進めた。
当初はヨーロッパの航空機を調達していたが、すぐに独自の航空機を製造して
空母建造計画に着手した。
帝国海軍は、最初から空母として建造されたものとしては世界最初となる空母鳳翔を
1922年(大正11年)に進水させた。
日本の航空兵訓練課程は非常に選抜的かつ厳格なものであり、良質で長く勤務し続ける
空中勤務者の集団を養成し第二次世界大戦の初期には、彼らが太平洋の空を支配した。
しかしながら、この訓練課程は時間が掛かる事と、訓練用のガソリン不足が相俟って
海軍は質のよい交代要員を急速に供給する事は十分に出来なかった。
海軍航空隊の操縦士は、陸軍飛行隊の操縦士と同様に、操縦性の高い航空機を好んだ。
このため、軽量で非常に俊敏な航空機の開発へとつながった。
中でも最も有名なものが零式艦上戦闘機である。
これは装甲板や防弾式燃料タンクなどの装備を犠牲にして軽量化と俊敏性を達成したものであった。
(提供:ウィキペディア)
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三菱 キ83 初飛行:1944年11月
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全日本軍機中、最速を誇った双発戦闘機。 
1941年5月、陸軍は爆撃機を護衛する長距離双発戦闘機開発を求めた。
しかし、実戦では双発機が単発機に敵わないことが判明。
計画変更が繰り返され1943年7月の最終案では司令部偵察機や高高度戦闘機への転用も考慮された。 キ83は1944年11月から飛行試験開始。
計画値の最高速度704km/hには届かないものの、686.2km/hの速度を発揮した。
しかし、墜落事故や空襲、東海地震などにより試験は進まず、そのまま終戦を迎えた。 
戦後、米軍の高オクタン価燃料による試験では762km/hを発揮したと伝えられている。

中島 キ44 二式単座戦闘機 鍾馗 初飛行:1940年10月
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日本では異色の重戦闘機。
当時、欧州で活躍していたドイツ軍戦闘機Bf109に触発され、陸軍は速度、上昇力、武装を
重視した重戦闘機の開発を決める。
完成した機体は、大直径ながら大馬力のエンジンで600km/hを越す最大速度を発揮。
ドイツ軍戦闘機Bf109Eとの比較でもこれを上回る成績を修めた。
しかし軽快な戦闘機に慣れた陸軍パイロットからは好まれず、緒戦は鍾馗に不向きな侵攻戦
だったこともあり、目立った活躍は出来なかった。
末期には重戦の本領を発揮出来る迎撃戦が増えたが、相手が超高性能機B29だったこともあり
その性能を最後まで活かせなかった。

川崎 キ45改 二式複座戦闘機 屠龍 初飛行:1941年5月
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1930年代後半、エンジン2機のパワーを活かした双発戦闘機が各国で開発される。
日本陸軍も川崎に開発を命じ、何度かの仕様変更を経て二式複座戦闘機屠龍が採用される。
しかし他国の双発戦闘機がそうだったように、単発戦闘機に比べて運動性能が低く
戦闘機としての評判は芳しくなかった。
一方、軽爆撃機としては高速で十分な運動性能を持ち、対地対艦攻撃に使用された
部隊からの評判は高かった。
船団護衛や戦争終盤には37mm砲や上向き砲(上方に角度を付けて装備した機関砲)で
本土防空戦におけるB-29迎撃任務に活躍した。

カワサキや三菱という企業が軍用機を作っていたことに驚きました
よくよく考えれば理解できますが・・・なるほど・・・そーだったんですね


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