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アンネ・フランクはアンネの日記を書かなかった
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↑アンネが自分の写真に自筆で文章を書き、アンネ・フランクとサインしています。
1942年10月10日付です。アメリカの友人に送った手紙でした。
「お気に入りの写真です。いつかハリウッドに行ってみたい。」といった内容であるそうです。
ちなみに、「アンネの日記」の格調高い筆跡とは、全く違う少女らしい、かわいらしい筆跡です。
しかし、筆記体ならば、アンネの日記のような大人びた達筆で書けたのでしょうか?
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右側の写真が、アンネの日記の筆跡です。筆記体です。右に傾斜した直線的な達筆です。

アンネが、葉書とは別に、1942年4月27日と29日にアメリカのアイオワ州ダンビルの11歳の
ペンフレンドに送った直筆の手紙です。アンネの日記と同じ筆記体です。
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左に傾斜した丸っこい文字です。アンネの日記の筆跡と比べてみてください。

ユダヤとイスラエルに多大な貢献をしてきたアンネの日記
アンネ・フランクがナチのユダヤ人収容所で、発疹チフスに罹患して命を落としたのは事実です。
彼女が死んだのは、1945年の3月だと言われています。
あとほんの1,2ヶ月生き延びていれば、解放されたのに。悲劇のヒロイン、ユダヤ人弾圧の象徴でした。彼女の書いたとされる「アンネの日記」は、戦後60年間一貫して、世界中の人たちの涙腺を
開け続けてきました。すばらしい日記文学でもありました。
ユダヤ民族が不当な扱いを受けてきたことを知って、世界中の人々が怒りに震えました。
ユダヤ人やイスラエルに対する共感を覚えました。
アメリカから、イスラエルが毎年、莫大な援助を受け取っているのも、何割かはアンネの功績である
かもしれません。アンネは、死して後もユダヤ人とイスラエルに貢献し続けているのです。

本当にアンネが書いたのですか?
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アンネの日記です。筆跡がアンネのものとは全く異なります。素人でもわかります。

さて、彼女が書いたといわれる「アンネの日記」なんですが、本当に書いたのでしょうか?
海外では、あまりに文章がたくみであること、筆致のすばらしさに疑問を感じる人たちがいます。
13歳から書き始めたとされる日記が、あまりに大人じみていると。
アンネの日記には、フランク家で唯一生き残ったアンネの父親、オットー・フランクが
「手を加えている」とか、オットーがアメリカのユダヤ人作家、メイヤー・レビンに依頼して
書かせたとか、偽作説があります。
デービッド・アービング氏のサイトでは、注意深く、アンネの日記の真贋を論じています。

1980年ドイツでひとつの裁判が行われました。
ドイツの雑誌、デア・シュピーゲルによると、「アンネの日記は偽書である」と主張する
エルンスト・ロエマーをアンネの父、オットーが訴えたのだそうです。
ドイツの捜査当局、BKA(FBIに相当)は訴えを受けて、アンネの日記の科学的分析を行いました。
その結果、第四章がボールペンで書かれていると判明したのです。
ボールペンは、1951年に発明されたものであり、アンネの生きている間には存在しませんでした。
この最後の部分が偽書であるのなら、アンネの日記全体の真贋が問題となります。
なぜならば、この第四章の筆跡が、第三章までと同じだったからです。

真贋を論ずると「ネオナチ」のレッテルを貼りに来るのがいる
アンネの日記で恩恵を受けてきたユダヤ人団体やイスラエルにしてみれば、もし偽作であると
わかってしまえば、大変なことになります。
「ホロコーストはなかった」と主張する人たちを勇気付けてしまいます。
ついでといっては何ですが、ホロコーストはありませんでした
ナチの収容所のガス室で殺されたユダヤ人の数は、600万人ではなく、0人でした。
アンネの日記もガス室自体も戦後に捏造されたものです。
そこで、見境なく猛然と逆襲しているようです。
偽作説をとる人物は、即刻、有無を言わせず、「ネオ・ナチ」呼ばわりです。

ネオ・ナチとは、ユダヤにとって実に都合のよい存在です。
ユダヤにとって都合の悪いことは、ネオ・ナチに主張させることによってたちまち信憑性を失います。どんな正論も、ネオナチの主張だと決め付ければ封殺できます。
ネオナチは、その意味でユダヤの最大の協力者です。当然、背後関係、資金源が気になります。
ヒットラーのナチス幹部が隠れユダヤ人だらけであったのと同様に。
ちなみに、ユダヤ人だらけの英国情報部がネオナチの背後にいるとする分析もあります。
 
未発明のボールペンで書かれたアンネの日記
アンネの日記の偽作説を潰そうと、あまり程度のよろしくない「嘘」をついている人もいるようです。

以下フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』アンネの日記より抜粋
「問題のボールペン・インクによる記述は、最初の文書鑑定(1960年)の折りに紛れ込んだ
小さな二枚の紙片に見られるに過ぎず、日記の内容に影響を与えるものでもなければ
当然アンネ・フランクが書いたものでも、ましてやメイヤー・レヴィンが書いたものでもない。
この紙片の筆跡は、ドロテア・オッケルマンのものであったことが明らかになっている。」
..........と書いていますが、ドイツの裁判では、そんな小さな紙切れ二枚の鑑定などしていません。
「第四章」全部が、ボールペンで書かれているとなっているのです。
さらに、アンネの日記の初版は、1947年に出版されたものだから、ボールペンで書かれているわけが
ないと主張されていますが、アンネの日記は最初から第4章までの全篇が出版されたわけでは
ありません。 そもそもこのウィキペディアの記述は出展が明らかではありません。

ネット上で類似の情報を探しても何も引っ掛かってきません。
「81年にオランダ国立法科学研究所において、紙質、インク、糊などに関する文書調査と筆跡鑑定が
行われ、結果、42年から44年の間に、本人が書いたものと結論付けられた。」というのも
出展不明です。つまり、便所の落書きと同じで根拠がありません。

※ユダヤ系ハンガリー人のジャーナリストのビーロー・ラースロー(László Bíró)が世界初の
近代的ボールペンを考案し1938年にイギリスで特許を取得。
1941年にドイツを逃れてアルゼンチンに移住すると同国で会社を設立し1943年に同国での特許を取得してBiromeというブランド名で販売。庶民が手にしたのは大分後になってかららしい。
アンネの日記は1942~1944の2年間の日記という設定なのでボールペンで書かれているのは矛盾する。

全く似ても似つかないアンネの自筆とアンネの日記の筆跡
この方、「1988年、アンネがアメリカの友人に送った手紙が新たに発見された。
その筆跡が明らかに日記の大人びたそれと異なっていたことから、真贋論争が再燃している。
筆跡の調査は、1960年と1981年の鑑定と同様に所定の手続きに基づき、政治的に中立な専門家に
よってなされるべき性質のものである。
縮小写真を見比べて直感的に判断するのは鑑定とはいえない。」と語られていますが
筆跡が違うなら書いた人物が違うということです。単純なことです。
なぜ、このように苦し紛れの偽作説否定をするのか、ユダヤとの関係を疑ってしまいます。
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左:アンネの自筆の手紙の拡大写真、右:アンネの日記の筆跡。これが同じ筆跡に見えますか?
ユダヤ勢力と懇意にされている創価学会か統一教会なら、そう見えるのでしょうけれど。
葉書の文字は、筆記体ではないので、アンネの日記とすぐさま対比できるものではないかも
しれません。しかし、手紙のほうは、筆記体です。明らかに左に傾斜した丸っこい独特の文字です。
アンネの日記の右に傾斜した達筆とは、似ても似つかない別物です。
同じ人物が書いた文字であるわけがありません。
アメリカの友人に送った手紙の子供っぽい筆跡がアンネのものであり、アンネの日記の大人びた筆跡
格調高い文章が他人のものだということです。ただ、それだけのことです。
本ページ冒頭の左の写真が、その手紙です。
この明らかな筆跡の違いを認めない人たちには特別なユダヤとの提携関係を疑うべきでしょう。
参考:極東のユダヤの手先は朝鮮人宗教

アンネの日記の日本における宣伝担当は創価学会
偽書説に猛然と抗議をしている創価学会員のサイトもあります。
アンネの日記が、戦後のユダヤ・イスラエルの特権獲得の道具にされてきたことを
われわれ人類は認識する必要があると思います。

アンネの日記が偽作であることを世に知らしめたフランスのロベール・フォーリソン教授は
不当にもホロコーストの嘘を追及する行為を禁じられ、罰金まで科せられたそうです。
(参考RF)馬鹿な話です。ヨーロッパでは、真実を追究すると罪に問われるそうです。
法律はユダヤ人の嘘を擁護するためにあるのでしょうか?
ヨーロッパがユダヤに組み伏せられ、口にぼろきれを詰め込まれて沈黙させられている光景が
浮かんできます。ヨーロッパはもうユダヤに支配から逃れられそうにありません。

参考SP
アンネの日記は小説(フィクション)
このエルンスト・ロエマーの申出に対する独逸連邦犯罪調査事務局(BKA)の調査結果を
西独逸の週刊誌「シュピゲール」が暴露した事があった。
それによると、『アンネの日記』の原本恥、長期に亙って全巻が発表されていなかった。
しかし裁判の結果遂に第4冊目が調査される事になったのである。
その4冊目はボールペンで書かれていたと云う。
よく考えれば、ボールペンが世に出て一般に使われている様になったのは1951年以降である。
アンネはそれよりも遥か以前に死んでいた。
第4冊目に書かれているボールペンの筆跡は第一冊目、第二冊目、第三冊目に書かれている筆跡と
全く同じ物である。
と云う事は、この日記はアンネ自身の手に依って書かれた物ではないと云う事の
動かし難い証拠となったのである。 
(提供:リチャード・コシミズ)
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