
第2章:国民車計画(VW計画)の開始
※VW=フォルクスワーゲン
※VW=フォルクスワーゲン
●ドイツ語で「国民車」を意味する「フォルクスワーゲン」の製造計画が
発表されたのはヒトラー氏が政権に就いて間もなくであった
発表されたのはヒトラー氏が政権に就いて間もなくであった
※ フォルクスワーゲン(Volks-Wagen)を英語で表現するとPeople's Carである。

ベルリンで開かれた「モーターショー」を視察するヒトラー(1933年)
ベルリン・モーターショーへの参加者は、年々増加し、1933年
35万人、1934年41万人、1935年59万人、1936年64万人、
1937年73万人、1938年77万人、1939年82万人だった。
●1933年2月11日ベルリンで「モーターショー」が開催された
その開幕式でヒトラーは「国民のための車を持つべきだ」と演説した。
倹約を行っている人々に安価に車を提供することが目標であった。
倹約を行っている人々に安価に車を提供することが目標であった。
ヒトラーは語る。
「これからの国家の評価は鉄道ではなく、高速道路の長さで決まる。
自動車が金持ちの階級のものである限り、それは国民を貧富の二階級に分ける道具
にしかならない。
自動車が金持ちの階級のものである限り、それは国民を貧富の二階級に分ける道具
にしかならない。
国家を真に支えている多くの国民大衆のための自動車であってこそ
文明の利器であり素晴らしい生活を約束してくれる。
我々は今こそ『国民のための車』を持つべきである!」
文明の利器であり素晴らしい生活を約束してくれる。
我々は今こそ『国民のための車』を持つべきである!」

当時ドイツの自動車メーカーは、裕福な顧客のために高級車を生産していたが
このような状態が続く限り「自動車は国民を貧富の二階級に分ける道具にしかならない」
とヒトラー氏は考えていた。
※ ヒトラー政権下のドイツの自動車メーカーは「ドイツ自動車工業連盟(RDA)」という
単一団体に統合されていた。
●ヒトラー氏はドイツの国力を世界にアピールするため
「一家に一台」をスローガンに大衆に自動車を普及させることを主張した
「一家に一台」をスローガンに大衆に自動車を普及させることを主張した
そしてヒトラーは、「国民車」の設計をレーシングカーのデザイナーとして有名だった
フェルディナント・ポルシェ博士に依頼した。
フェルディナント・ポルシェ博士に依頼した。
ポルシェ博士は快く応じ、1934年6月22日、「ドイツ自動車工業連盟(RDA)」と
正式に契約を交わした。
この契約によりポルシェ博士は、10ヶ月以内に「国民車」のプロトタイプを
完成させることとなった。
正式に契約を交わした。
この契約によりポルシェ博士は、10ヶ月以内に「国民車」のプロトタイプを
完成させることとなった。

(左)フェルディナント・ポルシェ博士
(右)ヒトラーと親しく会話するポルシェ博士
ボヘミア出身の自動車工学者であるポルシェ博士はフォルクスワーゲンを手がける前は
優秀な技師として多くの会社を渡り歩き、電気自動車や電気とガソリンの混合動力車
「ダイムラー社」で伝説のスポーツカー、「メルセデスSS」、「SSK」などを開発していた。
優秀な技師として多くの会社を渡り歩き、電気自動車や電気とガソリンの混合動力車
「ダイムラー社」で伝説のスポーツカー、「メルセデスSS」、「SSK」などを開発していた。
※ 1931年に彼は「ポルシェ社」の前身である 「ポルシェ設計事務所」をシュツットガルトに
設立していた(設立年については1930年という説もある)。
●「国民車」の設計の条件として座席は4、5人乗りで燃費が良く
持続してアウトバーンを走れ修理費が安いこと
そして「空冷式エンジン」であることが提示された
持続してアウトバーンを走れ修理費が安いこと
そして「空冷式エンジン」であることが提示された
このとき提示された基本性能は、当時の車としては型破りの内容であった。
世界のモータリゼーションに革命的なインパクトを与えたアメリカのT型フォードは
安価をあくまでも追求した結果、機構的には極めて単純だった。
だがフォルクスワーゲンは、安価が第一の目標だったのに機構的には極めて高級だった。
安価をあくまでも追求した結果、機構的には極めて単純だった。
だがフォルクスワーゲンは、安価が第一の目標だったのに機構的には極めて高級だった。
例えば「全輪独立懸架」。そのころ「全輪独立懸架」の市販車などは、ほとんど
見かけることはなかった。
見かけることはなかった。
※ このヒトラーの「フォルクスワーゲン(VW)計画」は、大戦後のヨーロッパの車作りを
一変させることになる。
一変させることになる。

↑ヒトラーが実際に描いたラフスケッチ
「このような車を作って欲しい」とポルシェ博士に依頼した。
フォルクスワーゲン(国民車)は、ヒトラーによる「国民車構想」と
ポルシェ博士のアイデアが融合して実現していくのである。
●ヒトラーはドイツの自動車工業のあり方や理想のエンジンについて
独自の考えを持っていた
独自の考えを持っていた
参考までに、ヒトラー氏は側近に対してこう語っている。
「今までの我がドイツの自動車メーカーは、常にニューモデルを発表し
現在あるタイプを改装し改善を加えている。
その結果、無数の数と種類のスペアパーツを作らねばならなかった。
異なったモデルの部品の互換性がないからだ。 〈中略〉
現在あるタイプを改装し改善を加えている。
その結果、無数の数と種類のスペアパーツを作らねばならなかった。
異なったモデルの部品の互換性がないからだ。 〈中略〉
……(このような事態を避けるために)将来、我々はドイツ自動車工業が
1ダースほどのモデルしか生産しないよう制限を加えるべきだ。
1ダースほどのモデルしか生産しないよう制限を加えるべきだ。
そして、自動車工業の第一の目的は、エンジンの単純化に置くべきである。
より高出力な各種の新しい気筒を導入することでなく、標準の気筒の数を
増大させて行わなくてはならない。ダッシュボードもまた単純化すべきである。
しかし、最も重要なやり方は、ある1つのエンジンが、病院車にも偵察車にも
大砲の重牽引車にも使えるようにすることだ。 〈中略〉
より高出力な各種の新しい気筒を導入することでなく、標準の気筒の数を
増大させて行わなくてはならない。ダッシュボードもまた単純化すべきである。
しかし、最も重要なやり方は、ある1つのエンジンが、病院車にも偵察車にも
大砲の重牽引車にも使えるようにすることだ。 〈中略〉
私の考えている理想的なエンジンは、2つの特性を持っていなくてはならない。
1つは空冷式でなければならない。2つめは分解と交換が容易でなければならない。
後者の特徴は特に重要である。 〈中略〉
また、標準化を高度に進め、この理想のエンジンの生産も単純化することが
必要なことも明白である。」

ポルシェ博士を師とあおぐ有望な若手技術者が集まりシュツットガルトのポルシェ家のガレージで
作業は始められた
●1935年に開かれたベルリン・モーターショーの開幕式で
ヒトラー氏は「国民車」の誕生を予告した
1つは空冷式でなければならない。2つめは分解と交換が容易でなければならない。
後者の特徴は特に重要である。 〈中略〉
また、標準化を高度に進め、この理想のエンジンの生産も単純化することが
必要なことも明白である。」
第3章:プロトタイプの製作
●ヒトラーに「国民車」の設計を依頼されたポルシェ博士は
自分の別荘のガレージでプロトタイプの製作を開始した。
自分の別荘のガレージでプロトタイプの製作を開始した。
しかし、いかなる天才ポルシェといえども、カブトムシ(ビートル)の原型が出来上がるまでは
2年という歳月を必要としなければならなかった。
2年という歳月を必要としなければならなかった。
※ ここで手作りされた試作車は、のちに「VW3」と呼ばれる。
「VW3」は最終的に5台作られた(V1、2=各1台、V3=3台)。

ポルシェ博士を師とあおぐ有望な若手技術者が集まりシュツットガルトのポルシェ家のガレージで
作業は始められた
●1935年に開かれたベルリン・モーターショーの開幕式で
ヒトラー氏は「国民車」の誕生を予告した
「私は優れた技術者、ポルシェ博士とそのスタッフの努力により、ドイツの国民車が誕生の
運びになったのを喜びたい。
従来の中型オートバイより安く、しかも燃費の良い小型車をドイツ国民に贈ることが
将来必ず可能になるものと信じている」
運びになったのを喜びたい。
従来の中型オートバイより安く、しかも燃費の良い小型車をドイツ国民に贈ることが
将来必ず可能になるものと信じている」
●「フォルクスワーゲン計画」でポルシェ博士に提示した条件のうち
ヒトラー氏が最も固執したのは「価格」だった。
庶民の手の届く価格(1,000マルク以下)であることに
強くこだわったのである
ヒトラー氏が最も固執したのは「価格」だった。
庶民の手の届く価格(1,000マルク以下)であることに
強くこだわったのである
しかし、どう考えても、1台あたりの販売価格をこれほどまでに抑えることは不可能に思われた。
何しろチッポケなもっとも安い車でさえ1500マルクはした時代のことである。
(このヒトラーの目標価格は、ディーラーの利益を除外した上での単純計算においても
達成困難な価格だった)。
何しろチッポケなもっとも安い車でさえ1500マルクはした時代のことである。
(このヒトラーの目標価格は、ディーラーの利益を除外した上での単純計算においても
達成困難な価格だった)。
しかしそれでも、ポルシェ博士は熱心に仕事を続けた。
自分がずっと胸に描き続けてきた理想の小型車に挑戦できる願ってもない機会だと考えたからだ。

自分がずっと胸に描き続けてきた理想の小型車に挑戦できる願ってもない機会だと考えたからだ。

空冷水平対向4気筒エンジンをリアに搭載して後輪を駆動するレイアウトは
その後のポルシェのスポーツカー「356」、「911」へと引き継がれていった。
その後のポルシェのスポーツカー「356」、「911」へと引き継がれていった。
●ドイツ自動車工業連盟(RDA)の主要メンバーは
「この条件を鵜呑みにしたならば予定通りには事が進まない」
と公言し冷たい言葉をポルシェ博士に投げかけた
「この条件を鵜呑みにしたならば予定通りには事が進まない」
と公言し冷たい言葉をポルシェ博士に投げかけた
しかしそれは結果として、ポルシェ博士の情熱に油を注ぐことになった。
※ 「RDA」の主要メンバーたちは、一設計者に過ぎないポルシェ博士に国民車の設計・製作の
イニシアティブを握られるという事実を苦々しく感じていた。
また、「RDA」に参加していた「オペル社」はポルシェ博士に対抗して、独自に大衆車の開発を
進めていた。
イニシアティブを握られるという事実を苦々しく感じていた。
また、「RDA」に参加していた「オペル社」はポルシェ博士に対抗して、独自に大衆車の開発を
進めていた。
しかし、この「オペル社」の策略は後にヒトラー氏を激怒させることになる(後述)。
続く
▣ ヒトラーとナチス "捏造と真実"



▣ ヒトラーとナチス "捏造と真実"



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