日本書紀は 偽書

★【要拡散】 『日本書紀』は " 偽書 " である 1/2 ※藤原氏によって改竄された日本書紀
の続きです
日本書紀は  偽書  である藤原氏によって改竄された日本書紀








4日本を乗っ取る名門一族(?)藤原氏の正体
㉙日本国を重大な危機に陥れる危険があった「白村江」への参戦を
天智天皇(中大兄皇子)に執拗に迫ったのは中臣(藤原)鎌足でした。
その背景には、鎌足の出自にまつわる謎があります。
白村江の戦い中大兄皇子と中臣鎌足
㉚話は戻りますが、唐・新羅の圧迫を受け、崩壊した百済の君臣は囚われの身になりました。
が、鬼室福信という武将が百済王家を復興しようと立ち上がり、六百六十年九月に使者を立て
救援とともに「人質として日本に居た百済王子・扶余豊璋を召喚し王にしたい」
との要請がありました。
扶余豊璋

㉛豊章は帰国して百済王になりますが、人気の高かった鬼室福信を嫌い、謀反の疑いで殺害。
知将を失った百済は白村江の戦いで大敗、日本の大軍に守られていた豊章は「行方知れず」
とされています。
一方、天智天皇の側近である鎌足についてのこの時期の記述が日本書記から完全に欠落しています。
鬼室福信



㉜このようなことを考えると、鎌足の出自についてはかなり怪しいものがあり
鎌足は"百済王・豊章"だったのではないかとの説が説得力を帯びてくるのです。

㉝ところで、鎌足が称した「中臣姓」ですが、中臣本宗家は、古代の日本において忌部氏とともに
神事・祭祀をつかさどった海人系豪族でしたが、物部氏とともに仏教受容問題で
蘇我氏と対立したために没落、白川家が神祇伯を世襲するようになると歴史の舞台から消滅しました。

㉞また、中大兄皇子と異母兄弟だったが、蘇我入鹿によって皇太子になった古人大兄皇子
(ふるひとのおおえのおうじ)は、鎌足によって入鹿が殺されるのを見て自邸に逃げ帰ったときに
「韓人(からびと)が入鹿を殺した。私は心が痛む」と漏らしたとの記録があります。

㉟さらに鎌足は大化の改新の最大功労者であるにも拘らず、臨時職である「内臣(うちつおみ)」
になったただけで、内大臣、左大臣という高位に就けず、子供の藤原不比等についても
律令制の完成者と言われながら、最高位の左大臣にはなれませんでした。
これは「国籍条項」があったためと言われています。

㊱一時は、壬申の乱によって陰に追いやられ、鳴りを潜めていたた藤原氏でしたが
天武天皇の崩御後、不比等が復活します。
そして、あれだけ抵抗していた律令制などの諸改革に対する姿勢も変え
「大宝律令」を発する等して完成させます。

㊲が、諸改革を実質的に成功させたのは天武天皇であり、流れに敏な不比等は
その後「律令」の解釈権を独占。
例えば「皇后」の資格についても明確な規定がなかったため、それまでの「皇族から選ぶ」
という慣習を無視して自家から輩出、"天皇家への浸透"を進めました。

㊳その後、天武天皇系の「長屋王」の謀殺、藤原氏に抵抗した聖武天皇の子「安積親王」を暗殺
藤原一族による横暴に危機感を抱き改革を進めていた「菅原道真」の追い落としなど
藤原一族は海人族(日本民族)の復権を阻止しながら朝廷内での絶対的な支配権を確立します。

729年 長屋王の変と呪い ※イラストで学ぶ楽しい日本史より
中臣鎌足の息子である藤原不比等には、4人の息子がいました。
まとめて藤原四子(しし・よんし)とか
藤原四兄弟(しきょうだい・よんきょうだい)などと呼びます。

長男 藤原武智麻呂(むちまろ)…藤原南家(なんけ)の祖
次男 藤原房前(ふささき) ………藤原北家(ほっけ)の祖
三男 藤原宇合(うまかい) ………藤原式家(しきけ)の祖
四男 藤原麻呂(まろ)……………藤原京家(きょうけ)の祖

武智麻呂の家は房前の家の南にあり、房前の家は武智麻呂の家の北にあったため、
それぞれの子孫をまとめて藤原南家・藤原北家と呼びます。
宇合は式部省(しきぶしょう)の役人であったことからその子孫を式家、
麻呂は京職(きょうしき)の役人であったたことからその子孫を京家と呼びます。

藤原不比等が亡くなったとき、この藤原四子は年齢的にも身分的にもまだまだ青かったようで、
結果として天武天皇の孫である長屋王が実権を握ることとなりました。

長屋王は721年に右大臣となり、さらに724年には聖武天皇の即位と同時に左大臣となりました。
ぐいぐい出世していきます。
これは藤原四子としたらおもしろくないわけですよ。
自分たちも不比等お父さんみたいに権力を握りたいのに、長屋王が邪魔で仕方ない。

するとどうでしょう…

長屋王に謀叛(むほん)の意図がある、すなわち天皇を裏切ろうとしている
というウワサが突如たつのです。
長屋王 暗殺 呪い






そこで、藤原宇合はすかさず兵を率いて長屋王の家を取り囲みます。
長屋王は、奥さんである吉備内親王(きびないしんのう)らとともに毒をあおいで
自殺してしまいました。

これが729年に起こった長屋王の変です。
長屋王の死後、実権を握ったのはもちろん藤原四子です。

しかし…

737年、権力の絶頂にあった藤原四子たちは天然痘(てんねんとう)という病気にかかり、
バタバタバタバタと亡くなってしまうのです。

え?
4人もいるのに??
全員???

人々は言いました、「これは長屋王の祟(たた)りに違いない…」と。
長屋王の変
ちなみに、長屋王の邸宅跡は1986年に平城宮跡のすぐ近くで発見されました。
奈良時代の権力者の生活を伝える重要な遺跡であり、
また4万点もの木簡が出土したことから保存を望む声が多く聞かれましたが、
残念ながら遺跡の上に「そごう」というデパートがつくられました。

遺跡を保存するのか、現代人にとって便利なものを作るのか、難しいところですね。

さて、その「そごう」。

約10年後に経営破綻してしまい、長屋王の邸宅跡につくられた
「奈良そごう」も閉店してしまったのです。※閉業日: 2000年(平成12年)12月25日

人々は言いました、「これは長屋王の祟りに違いない…」と。

長屋王の呪い、こわすぎる…

「そごう」の経営破綻が長屋王の祟りによるものかどうかは分かりませんが、
「奈良そごう」の跡地は、現在「イトーヨーカドー奈良店」となっています。
かたすみにここが「長屋王の邸宅跡」であることを伝える説明板がありますし、
店舗の裏手には長屋王をお祀(まつ)りした祠(ほこら)もありますので、
「イトーヨーカドー奈良店」へ買い物に行かれる際にはぜひ一度ご確認ください。
(提供:イラストで学ぶ楽しい日本史)
長屋王の邸宅跡







㊴以上の経緯に鑑みるとき、日本の"名門一族"と称される一方で、巧に権力を掌握した
狡猾な藤原一族は、"百済人"であった可能性が高い
と考えられるのです。
※共産主義で極左翼の売国奴 : 藤原氏の末裔・近衛文麿(ゾルゲ事件の協力者)は
昭和天皇と会話するとき足を組んで椅子に座っていたといいます。
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5民衆から非難されていた天智天皇(中大兄皇子)
㊵以上述べてきた「藤原氏の正体」に加え、白村江、壬申の乱の前後の事情について
「藤原氏の正体(関裕二著)」)を引用しつつ、さらに詳しく見て行き
「日本書紀」が藤原氏によって都合良く編纂された可能性について論考します。

㊶中大兄皇子に対する民衆の反発には、一つの頂点がある。
それは、日本史上最大の国家存亡の危機、「白村江の戦い」の前後です。

㊷何を思ったか、斉明天皇(女帝)は、飛鳥周辺で、盛大に土木工事に励んだ。
飛鳥の天香具山の西側から石上山(いそのかみやま)(奈良県天理市)に至る長大な水路を掘り
舟二百艘(そう)をもって、石上山の石を積んで、宮の東の山に石を重ね、垣としました。

㊸この土木工事が、斉明朝に行われていたから、人々が斉明天皇を罵倒したかのように思われているが、そうではない。
このときすでに、実権は中大兄皇子と中臣鎌足に移っていたからです。

㊹このあと、斉明天皇は孫の建皇子の死を悼み、悲嘆に暮れている。
斉明四年(六五八)五月と同年十月に、それぞれ三首ずつ、建皇子を偲ぶ歌を詠っているが
その様は政治家のそれではなく、母であり祖母である手弱女(たおやめ)としての姿です。

㊺「大化の改新(乙巳の変)」の"蘇我入鹿暗殺"場面で、子の中大兄皇子に叱責されて
返す言葉を失った皇極天皇の姿を重ねれば、女帝の弱い立場がみえてきます。
 
㊻では、なぜ中大兄皇子が飛鳥の東側に、「狂心の渠」を造ったかといえば、それは酔狂ではなく
軍事目的があったと考えられます。
それは、中大兄皇子の目論む百済遠征への準備であり、遠征中に飛鳥で
不穏な事態が生じたときのための布石にほかなりません。
 
㊼民衆が不満を爆発させたのも、中大兄皇子のめざす百済救援を無謀と判断していたからです。
つまり、遷都には反対論が根強く、民衆は各地で暴徒と化したようです。
 
㊽このような中大兄皇子(天智天皇)に対する反発は、皇子の示した強烈な百済救援政策に
起因しており、また、蘇我入鹿が殺されたのは、朝鮮半島をめぐる政策の違いによってであって
日本書紀でいうような「蘇我氏の専横」があったからではないのです。

6天武天皇と対立していた藤原氏
49、以上の様に、実権を掌握した天智天皇と鎌足は白村江に出兵し惨敗。
日本は唐による侵攻の危機に瀕します。
これを憂いた大海人皇子(天武天皇)は「壬申の乱」を起こします。
この背景には、大海人皇子と藤原氏との間に大きな確執がありました。

50、鎌足は壬申の乱の直前、大海人皇子の即位を阻上するために暗躍していた疑いが強いからです。
なぜなら当時、天智自身、皇位を弟の大海人皇子ではなく、自分の子の大友皇子に譲りたいと
焦っていたこと。

51、鎌足は天智の懐刀であって、天智の意志を尊重していたと考えた方がつじつまが合うこと。
そして、このことを証明するように、日本最初の漢詩集「懐風藻」の大友皇子を紹介する一節に
次のような奇妙な記事が残されています。

52、天智天皇晩年のことである。ちょうど来日していた唐使・劉徳高が大友皇子をさして
日本にいるのはもったいないほどの人物だと評価したという。その劉徳高があるとき夢を見た。

53、それは、大友皇子が皇位を継承しようとすると、脇から邪魔者が現れ横取りしてしまった
というのである。
怪しんだ劉徳高は、これを鎌足に話したという。
すると鎌足は、「天道親無(てんどうしんな)し、惟善(ただぜん)をのみ是(こ)れ輔(たす)く」と。

54、皇子が徳を修める限り、皇位はかならず転がり込むでしょう、というのです。

55、ここにいう邪魔者とは、大海人皇子であり、鎌足が大海人皇子の廃太子を願っていたことは
十分考えられることでした。
その鎌足は壬申の乱の直前に亡くなるが、その子・藤原不比等も、父にならって
大友皇子側についたため、敗戦の憂き目にあいました。

56、事実、藤原不比等は天武天皇在位中は、まったく日の目を見ず、歴史に登場するのは
天武天皇崩御後のことです。
この間、不比等は朝廷から干されていた可能性が高く、とするならば、不比等が天武朝を美化する
目的の歴史書の編纂をおもしろく思っていたはずはありません。

57、逆に、天武天皇の存在を抹殺しようと企んだ疑いさえあり、日本書紀のなかで
天武天皇の前半生がまったく空白なのはそのためと考えられます。

さて、以上みてきたことからすると、日本書紀の内容には大いに疑問が持たれます。
正式な国史書となると、権力を掌握するものにとっては執政の有力な武器となります。
そして洋の東西を問わず、時の権力者が自分に都合良く編纂、あるいは改ざんするのが世の常です。

59、例えば、平清盛の時代に、常陸国から「第三次修正日本書紀」という勧学院派の九世紀のものが
多賀城にあったと献納にきた者がいました。
が、それば藤原氏を天孫族とし、唐や朝鮮からの大陸人を良とし
それ以外は賎としていたため清盛は激怒しました。

60、その者を斬首にした上で書き直し
「天(あま)とは古代アラブの水の意味で大船団で熊野に入ってきた平家一門こそ天の一門なり」
とさせて、第三次日本書紀を焚書した事は、兵庫県西宮の荒深道太郎氏が研究成果として
発表しています。

結論として「大化の"改新"」と称して、蘇我入鹿を倒した天智天皇、中臣(藤原)鎌足を
英雄扱いし、他方で「壬申の"乱"」と称して、天武天皇を大きくは扱っていない「日本書記」は
真実を真逆に改ざんした"偽書"である可能性が高い
と言えます。
(提供:”新次元の光” 誰も語れなかった驚愕の日本史)

主な藤原氏 ※全て藤原不比等の家系=源氏の親方
源平藤橘 藤原の不比等 朝鮮人








藤原南家(藤原不比等の長男 藤原武智麻呂に始まる藤原氏の一流)
為憲流 - 工藤氏、伊東氏、伊藤氏、二階堂氏、相良氏など

藤原北家
(藤原不比等の次男 藤原房前を祖とする家系)
道兼流 - 宇都宮氏、小田氏
長家流 - 那須氏
勧修寺流 - 上杉氏 ※上杉謙信は養子に入る前は長尾景虎(平氏)
小野宮流 - 土佐田村氏
山蔭流 - 伊達氏
利仁流 - 斎藤氏、加藤氏、富樫氏、坪内氏
秀郷流 - 奥州藤原氏、藤姓足利氏、山内氏 小山氏、佐野氏、小野崎氏、比企氏、佐藤氏、水谷氏
結城氏、桐生氏、波多野氏、近藤氏、伊藤氏、内藤氏、大友氏、少弐氏、龍造寺氏、立花氏、筑紫氏
その他 - 姉小路氏、有馬氏、菊池氏など

藤原式家
(藤原不比等の三男 藤原宇合を祖とする家系)

藤原京家
(藤原不比等の四男 藤原麻呂を祖とする家系)
直江氏(藤原京家の藤原麻呂が遠祖)
(提供:ウィキペディア)

藤原氏の公家諸家は平安末期・鎌倉時代以降には公式文書以外で
「藤原」を使わず
「近衛」「九条」「鷹司」「二条」「一条」など各家の名称を名乗り
維新後もそれを名字とした。
現代の藤原氏は親類やゆかりのある人間と考えられている
理由は藤原氏が百済渡来人の朝鮮人の血筋であることが世間に知られ都合が悪くなったからであった
中臣鎌足 藤原鎌足 朝鮮人 藤原の不比等









『藤』『原』の由来 藤原 = 百済由来 = 등나무원 = 후지와라
「藤」=「百済」
「百済」は百済人の発音ではホゼでフジと発音する「藤」があてられた
更に藤の木は樹齢がなんと1000年以上もうる樹勢の強い木でフジの花言葉は
一度絡みついたら死ぬまで話さないところから

「決して離れない」
藤の木
※藤は恐ろしい木で藤に絡みつかれた木は必ず枯れると言われています
藤原氏によって長年絡みつかれている今の天皇家と日本を言い表しています

「原」
はみなもと。もと。おこり。物事のはじめ。もとづくところ。 
藤原 = 百済由来といった意味の名字となる
藤の木と藤原氏








藤原氏由来の苗字
◆十六藤 (じゅうろくとう) - 以下の16の苗字の総称(読みは「とう」または「どう」人口の多い順)

01佐藤 - 佐渡国・下野国安蘇郡佐野荘/衛門佐
02伊藤 - 伊勢国・伊豆国
03斎藤 - 斎宮寮頭
04加藤 - 加賀介
05後藤 - 備後国・肥後国/藤原氏後裔[4]
06近藤 - 近江掾/近衛
07遠藤 - 遠江守
08工藤 - 木工助
09安藤 - 安房国・安芸国・陸奥国安積郡・信濃国安曇郡・下野国安蘇郡
10内藤 - 内舎人・内蔵助
11須藤 - 下野国那須郡
12武藤 - 武蔵守/武者所
13進藤 - 修理少進
14新藤 - 武蔵国新座郡
15神藤 - 諏訪神家
16春藤 - 大和国添上郡春日

◆十六藤以外で、藤原氏由来とされる苗字。藤を「とう」と読まない場合もある。

江藤 - 近江国・肥後国飽託郡大江
衛藤 - 衛府
海藤 - 尾張国海部郡
紀藤 - 紀伊国
岡藤 - 駿河国志太郡岡部
左藤 - 左衛門尉
信藤 - 信濃国
首藤 - 主馬首
周藤 - 周防国
尾藤 - 尾張守
兵藤 - 兵衛府

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朝鮮人 中国人 名字250ffbe366f










カテゴリ: ▣ 鮮害と除鮮=藤原氏・除中・除米
カテゴリ: 日本・日本史・侍・大和魂・大和撫子
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