日本とエチオピア 契約の箱











契約の箱は日本とエチオピアにある
契約の箱
( ארון הברית‎  aron habrit  Ark of the Covenant)とは『旧約聖書』に記されている
十戒が刻まれた石板を収めた箱のことである。
証の箱(あかしのはこ)、掟の箱(おきてのはこ)、聖櫃(せいひつ)、約櫃(やくひつ)
とも呼ばれる。
ただしユダヤ教・キリスト教において、「聖櫃」は「契約の箱」より広義のものをも含む語彙である。
神の指示を受けたモーセが選んだ、ベツァルエルが、神の指示どおりの材料、サイズ、デザインで
箱を製作し、エジプト脱出から1年後にはすでに完成していた。

アカシアの木で作られた箱は長さ130センチメートル、幅と高さがそれぞれ80センチメートル
装飾が施され地面に直接触れないよう、箱の下部四隅に脚が付けられている。
契約の箱
持ち運びの際、箱に手を触れないよう2本の棒が取り付けられ、これら全てが純金で覆われている。
そして箱の上部には、金の打物造りによる智天使(cherubim ケルブ)2体が乗せられた。

モーセの時代に、この中へマナを納めた金の壺、アロンの杖、十戒を記した石板が収納される。
しかしソロモン王の時代には、十戒を記した石板以外には何も入っていなかったと伝えられている。
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荒野をさまよっていた時代には祭司たちが担いで移動させていたが、ヨシュアの時代以降は
主にシロの幕屋の至聖所に安置される。
サムエル(紀元前11世紀の人物)を養育した大祭司エリの時代には、ペリシテ人によって奪われるが
ペリシテ人を災厄が襲ったため、彼らはこの箱をイスラエル人に送り返す。
また、ソロモン王(紀元前925年没)の時代以降は、エルサレム神殿の至聖所に安置される。

ソロモン王の死後、統一イスラエル王国は、紀元前930年頃に分裂した。
南のユダ王国は、ユダ族とベニヤミン族から構成されており、北のイスラエル王国は
それ以外の十部族からなっていた。
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しかし、アッシリア帝国が勃興すると、紀元前722年に、北のイスラエル王国は滅ぼされてしまった。その後、ユダ王国は、アッシリアに服属する形で存続していたが、紀元前609年にはエジプトの支配下に入り、 紀元前586年にエルサレム全体とエルサレム神殿が破壊され、支配者や貴族たちは
首都バビロニアへと連行されること(バビロン捕囚)となった。

契約の箱の下部には2本の棒が貫通しており、移動するときには、レビ族が肩にかつぎ
鐘や太鼓をならして騒ぎ立てた。
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かつぐための2本の棒は、絶対に抜いてはならなかったように棒を差し込んだまま保管されていた。

『聖書』ではヨシヤ王(紀元前609年没)の時代に関する『歴代誌下』 35章3節の契約の箱の記述を
最後に、比喩的に用いられる以外に直接言及される部分はなく、失われた経緯についても不明である。このことから、失われた聖櫃(The Lost Ark)と呼ばれることもある。

現在、聖櫃(契約の箱)を保持しているとして、これを崇敬しているのは
エチオピア(エチオピア正教会)だけである。
(提供:ウィキペディア)

シオンのマリア教会 ※エチオピアアクスム
シオンのメアリー・マリア教会
( Reheseese Adbarat Kidiste Kidusan Dingel Maryam Ts'iyon )は
 エチオピアのエチオピア正教会テアヘド教会であり、契約書の箱を含むと主張しています。
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それはAxum 、 Tigrayの町にあります。
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元の教会は、4世紀のADの時代にエザナ治世の間に建設されたと考えられており
その後数回建て直されました。

歴史 
Frumentius ( アチューン・セラマ・ケサティ・ビルハンまたは「平和の父」 光明の啓示者として知られている)の教説の創設以来、シオンのマリア教会は少なくとも2回は破壊され再建されました。
その最初の推定破壊は、10世紀のグディット王の手によって行われました。
その第2の確認された破壊は16世紀にAhmad ibnhim al-Ghaziの手で行われ、その後Gelawdewos皇帝によって再建され、その後17世紀にFasilidesによって再建され拡大された。
シオンの聖マリアは、エチオピアの皇帝が戴冠した伝統的な場所でした。
天皇がAxumで戴冠されなかったり、少なくともシオンの聖マリアで特別な奉仕によって
批准されなかったなら、彼は「アツェ」の称号で言及することはできませんでした。
1950年代にHaile Selassie皇帝は、シオンの聖母マリアの旧大聖堂の隣に男性と女性の両方に
開放された新しい近代的な大聖堂を建設しました。
古い聖職者教会は男性だけにアクセス可能であり、 メアリーはその教会の中にあると断言された
コヴナントの箱舟を象徴しています。
教会は、 エチオピア正教会テアヘド教会の重要な巡礼の中心地であり、特に11月30日の
チオン・マリアム祭 (21日エチオピアのカレンダーのヒダール)にあります。

コヴナントの箱舟 Ark of the Covenant
シオンの聖マリアは、元の契約書の箱を所有していると主張しています。
伝えられるところによれば、箱は、古い教会に隣接するタブレットの礼拝堂に移された。
なぜなら、タブレットからの神の「熱」が以前の聖域の石を砕いたからである。
Haile Selassie皇帝の妻、 Menen皇后は、新しい礼拝堂の建設費を支払った。

伝統によれば、箱舟は彼が父親ソロモンを訪れた後、 メネリク1世と共にエチオピアに来ました。
ガーディアンの修道士だけが箱舟を見ることができます。
聖書によれば、 コハニム以外の人たちにとってそうする危険性があります。
このようなアクセシビリティの欠如やアカウント全体についての質問は、外国の学者に主張の
真実性について疑問を呈させている。
ガーディアンの修道士は、前任者が死ぬ前に前任者によって命のために任命されます。
現職のガーディアンが後継者の名前を付けずに死亡した場合、修道院の修道士は
新ガーディアンを選ぶために選挙を行う。
ガーディアンは、残りの人生のために契約の箱の礼拝堂に閉じ込められる前に祈り、香を提供します。
(提供:ウィキペディア)

◆Faces Of Africa: Keepers Of The Ark


◆RR0214/C Ethiopia: Ark

石の宝殿:生石神社 ※
兵庫県高砂市阿弥陀町生石171
生石神社
(おうしこじんじゃ)は、兵庫県高砂市・宝殿山山腹にある神社である。ice_screenshot_20180524-173455
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石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を神体としており、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の
天逆鉾とともに「日本三奇」の一つとされている。
日本三奇






石の宝殿は、国の史跡で横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mの巨大な石造物。
水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも呼ばれる。
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誰が何の目的でどのように作ったかはわかっていない。
山形県にも同名の「生石神社」があり、当社の分社と伝えられている。
「生石」の読みは本来「おうしこ」であるが、「おおしこ」・「おいしこ」と誤表記
誤読されている場合もある。

祭神
大穴牟遅命(大己貴命)、少毘古那命( 少彦名神)を主祭神とし、大国主大神、生石子大神
粟嶋大神、高御位大神を配祀する。

歴史
社伝では、崇神天皇の時代、国内に疫病が流行していたとき、石の宝殿に鎮まる二神が崇神天皇
の夢に表れ「吾らを祀れば天下は泰平になる」と告げたことから現在地に生石神社が
創建されたとしている。
石の宝殿について『播磨国風土記』の大国里の条には「原の南に作り石がある。
家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。
伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされている。」という意味の記述がある。
聖徳太子が摂政であった時代には物部守屋はすでに死亡しており、矛盾をはらむ記述ではあるが
8世紀初期には6~7世紀頃に人の手で造られたと考えられていたことになる。
風土記が一般に流布されたのは江戸時代後期からであり、それまでの石の宝殿に関する文献で
風土記の内容を継承したものは見られない。
『万葉集』巻三、生石村主真人の歌にある志都乃石室は石の宝殿のことであるとも言われるが
定かではない。
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石の宝殿は8世紀以前からあったことになるが、生石神社は『延喜式神名帳』や国史に
掲載されておらず、『播磨国内神名帳』の「生石大神」が文献上の初見であるとされる。
『峯相記』では生石神社・高御位神社の解説で「天人が石で社を作ろうとしたが、夜明けまでに
押し起こすことができずに帰っていった」
という内容が記されており
この時期には石の宝殿は人の手によるものではないとする伝承が生まれている。

『播州石宝殿略縁起』では「神代の昔、大穴牟遅と少毘古那が国土経営のため出雲からこの地に至り
石の宮殿を造営しようとして一夜のうちに二丈六尺の石の宝殿を作ったが、当地の阿賀の神の反乱を
受け、それを鎮圧する間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった。
二神は、宮殿が未完成でもここに鎮まり国土を守ることを誓った」となり、『峯相記』より
具体的な神格が与えられている。

1579年(天正7年)、羽柴秀吉が三木合戦の折、神吉城攻略のために当神社を陣所として貸与するよう申し出たが、拒否されたために焼き討ちに逢わせた。(当時の宮司は神吉城主の弟であった。)
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焼け残った梵鐘は持ち去られ、関ヶ原の戦いの時に西軍石田三成方の勇将大谷吉継が陣鐘として
使用した。
敗戦の結果、徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺(大垣市)に寄進している。
鐘の表面には、応永26年乙亥(1419年) 「播州印南郡平津庄生石権現撞鐘」と刻まれている。

播州の秋祭り (生石神社)
毎年10月の3週目の土・日曜日に生石神社の秋季例祭が行われる。
播州の秋祭り同様に、「よーいやさー」というかけ声でやっさ(太鼓の入っている神輿の大きな
バージョン。播磨地域でよく使われる)が入ってきて、竹割りや神輿の喧嘩などが行われる。
また、能楽堂では高砂市にある「島」という地区が獅子舞を披露する。
他にも、能が披露されたり猿田彦が氏子を追いかけまわる神事も存在する。
なお、岸の屋台は反り屋根型布団屋台であり、これは曽根天満宮の氏子である曽根北之町から
譲り受けたものである。また、平津の屋台は神輿型屋台である。
(提供:ウィキペディア)

◆石の宝殿


◆生石(おうしこ)神社-空撮


◆超パワースポット 生石神社 石の宝殿 日本三奇 GoPro


◆生石神社-御神体の謎
ラリベラの岩窟教会群25








日本の御神輿は正に契約の箱を模したものである
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カテゴリ: 原始キリスト教・イエス-キリスト
カテゴリ: 神々・神社・神殿・神仏・古神道

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